その間の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 10:05 UTC 版)
京の公家や六波羅探題の情報はこれ以上無いので、後世(鎌倉時代末)の鎌倉側の記録に戻るが、『鎌倉年代記』にこうある。 5月2日:時村討手の先登の者十二人首を刎ねらる。 和田七郎茂明(預 三浦の介入道…)逐電しをはんぬ… 5月4日:駿河守宗方誅せらる。討手陸奥守宗宣、下野守貞綱既に攻め寄せんと欲するの処に、宗方は殿中(師時の舘、禅閤貞時同宿)の騒擾を聞き、宿所より参らるるの間、隠岐入道阿清(佐々木時清)宗方の為に討たれをはんぬ。宗方が被官処々に於いて誅せられをはんぬ。… つまり、4月23日に「仰ト号シテ」連署北条時村を「夜討」した12人はそれぞれ有力御家人の屋敷などに預けられていたが、10日もたってから「此事僻事(虚偽)なりければ」と斬首された。三浦氏に預けられながら逐電した和田茂明に追討使が発せられた様子は無く、所領(地頭職か)は没収されたものの、12年後には嫡子に所領(下地権か)の譲り状を書いており、28年後には旧来の所領を回復し出仕も認められている。 似た例は北条時宗が二月騒動で名越時章・教時兄弟を殺したときにもあった。このとき時章追討は誤殺であったと言われ、事件後、得宗被官の討手5名が処刑されている。討たれた家の者もともかくは面目を保て、時章の子や孫は家格は下がったとはいえ、幕府に一応の要職を得られ、その波紋を最小限に食い止めることが出来ている。
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