その他諸国の当事者・関係者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:24 UTC 版)
「ハル・ノート」の記事における「その他諸国の当事者・関係者」の解説
クレーギー駐日イギリス大使 「もし、暫定協定案について何らかの妥協が成立し、三ヵ月間の猶予期間が得られたとするならば、季節風の条件で日本軍のマレー上陸作戦は困難になっただろう。また独ソ戦の様相も変化する。対独潜水艦戦の成功といった新しい要素も加わり、日本政府が対米戦の決断に達することは極めて困難になるだろう」(1942年2月4日付チャーチル英首相宛の報告書において)。 チャーチル英首相 クレーギーの報告書について、「日本がアメリカを攻撃し、そのためアメリカが国を挙げて勇躍参戦してきたことはまさに天の恵みであった。大英帝国にとって、これ以上の幸運はそうざらにはない。日本の対米攻撃は、いずれが我が国の友であり敵であるかを、白日のもとにさらした」と批判し、報告書を厳秘扱いとした。イギリスは対独戦に苦戦していた。親日派で知られたチャーチルは対日宥和工作を進めていたが、日本がドイツと同盟を締結して以降は戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。チャーチルの回顧録によれば、日米開戦の知らせを受け、勝利を確信し喜んだという。 また、チャーチルは、日本の参戦まで多くの時間が稼げたことについて次のように述べている。「もしドイツが一九四〇年六月フランス崩壊後にイギリス本土侵入を企て、またもし日本がそれと同じ時期に、イギリス帝国とアメリカに宣戦したとすれば、われわれの運命がどんなに災厄と苦悶とであっただろうことは、何人も知りえない」(1941年12月26日のアメリカ上下両院合同会議における演説で)。 蔣介石 日中戦争が持久戦に突入していた蔣介石にとっての悲願は、日ソ開戦あるいは日米開戦の実現であった(日ソ中立条約により日ソ開戦が遠のいてからは、「日米開戦のみが日本に勝利する唯一の方法」となっていた)。蔣介石は故適大使・宋子文を通じて、アメリカが対日妥協を行わないようルーズベルト工作を進めていたが、日米開戦を受け、日記に「抗戦四年半以来の最大の効果であり、また唯一の目的であった」と記した。 ロナルド・リンゼイ(英語版)駐米英国大使 「ルーズベルト大統領は戦争を避けるため、経済封鎖に固執していた」と述べている。
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