その他の党の指名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 04:26 UTC 版)
「1936年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事における「その他の党の指名」の解説
この選挙ではルイジアナ州選出の民主党上院議員で「富の再共有」(Share Our Wealth)を掲げ一世を風靡していたヒューイ・ロングが、第三党の候補者として推す動きが盛んだったが、歴史家でロングの伝記作者であるT・ハリー・ウィリアムズに拠ればロング自身に大統領選出馬の意思は無かったと言われている。(ウィリアムズに拠れば)ロングとしては、ラジオ放送で人気を博したカトリック教会の司祭で反ユダヤ主義的ポピュリストでもあったチャールズ・カフリン神父と手を組み、新党「富の再共有」党の公認候補として誰か他の者を出馬させる胎だったと言う。新党の候補者とルーズベルトで左翼票が食い合うことで共和党の大統領が選出されても「富の再共有」の存在を訴えることは出来、ロング自身は4年間待って1940年の大統領選挙で民主党員として出馬しようとしていた。「富の再共有」党の候補者としては、共和党予備選に名乗りを挙げたボラー上院議員やバートン・K・ホィーラー上院議員(民主党、モンタナ州)、また農業労働者党の有力政治家だったフロイド・B・オルソンミネソタ州知事が考えられていたが、1935年9月にロングが暗殺されるとボラーとホィーラーは第三党からの出馬に興味を失い、オルソン知事は末期の胃癌と診断されて出馬を断念する。 カフリン神父は、ロングの下で活動していた白人至上主義者でキリスト教右派の代弁者であるジェラルド・L・K・スミスや老齢年金制度の創設を主張していた医師のフランシス・タウンゼンドと手を組み、結成した新党「連合党」候補者としてウィリアム・レムケ下院議員(共和党、ノースダコタ州)を擁立した。レムケは他の可能性があった候補者に比べてカリスマ性も名声も無く、選挙戦もうまく戦えないでやっと2%を獲得したにとどまり、連合党は翌年解散した。 ちなみにワシントン州ではファシスト活動家で銀シャツ党を率いていたウィリアム・ダドリー・ペリーが、候補者名簿に載り2,000票足らずの票を得た。
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