せきをしてもひとり
作 者 |
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季 語 |
咳 |
季 節 |
冬 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
荻原井泉水編『大空』所収。終焉の地となった瀬戸内海の小豆島、西光寺奥の院南郷庵(みなんごあん)での作。僅か九音、俳句という最短詩型の極を行った作品である。 初出は没する二ヵ月前の「層雲」大正十五年二月号。「層雲」、層雲第七句集『短律時代』などには、漢字表記「咳をしても一人」となっている。それぞれに味わいがあるが、仮名表記により句の透明度が増し、放哉の孤独の思いが一層深く伝わって来るような気がする。 放哉は自分勝手で我が儘で嫌いだという人は多い。しかし、人間とは本来自分勝手で我が儘なもの、それは生存本能の証でもある。誰だって生活に破綻を来せば、放哉のように自暴自棄になっても不思議ではない。 そして、放哉の吐露する孤独は、自覚しようがしまいが、万人の胸底にきっとあるものである。 放哉のように、私にも近親結婚を反対された従妹の女性がいた。大学時代には肺結核にも罹ったし、卒業後は就職先にも恵まれなかった。まかり間違えば、私も同じ境遇に陥ったかも知れない。人事ではないのである。 乞食(こつじき)の旅に明け暮れた山頭火も辛かったであろうが、体まで縛り付けられた放哉はもっと苦しかったと思う。放哉の生き様は「定住漂泊」などという常人の言葉では到底言い尽くすことは出来ない。 私の故郷は讃岐高松で、一時、小豆島での田舎暮らしを志したこともあり、南郷庵には何度も行った。 庵は、今は尾崎放哉記念館となって当時の風情は全くないが、近くにある「放哉さんの墓」は現在も素朴のままに残っている。頻りに鳴く夏鶯を聞くなどしながら、墓の前にしゃがみ込んでいると、放哉が話し掛けて来るような、そんな気がして来るのである。 |
評 者 |
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備 考 |
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