墓のうらに廻る
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俳句の三大要素といえば、「定型」「季語」「切れ字」が挙げられます。しかし掲句には三つとも存在しません。だからこの句を俳句ではないという人もいますが、一般的には自由律俳句と呼ばれています。 放哉は現在の東京大学法学部を卒業して生命保険会社に就職しますが挫折。病気の悪化、妻子と別居と続き、後は各地の寺男を転々。妻子や家庭、仕事や名誉はいうに及ばず、俳句の三大要素まで捨て去った41歳の生涯でした。世の中の規則や規範に縛られることに堪えられなかったのかもしれません。 掲句、不思議な臨場感があります。理屈でなく詩でもない力があります。墓はあの世とこの世の境界線上にあるといわれるが、どの墓も表から見るのと裏に廻って見るのでは全く異なった感じを受けます。表側にはその人の公式面が表れていて、裏側には隠そうとしている部分が垣間見えるのかも知れません。物事の裏側にある世界が表出しているのです。人間の文化は、たくさんの時間をかけて作られた虚構の世界であるとも言えます。放哉は保険会社に勤めていたときに表側の虚構に嫌気がさしたのかもしれません。寺男として墓守をしながら、たくさんの墓に接する中で裏側の世界に気付き、すべてを捨て去ってなお残る感覚だけを本物の真実だと言いたいのではないでしょうか。人生のすべてを懸けて追求した到着点がここだったのではないでしょうか。放哉の他の句からも同様な匂いがします。 淋しいからだから爪がのび出す 肉がやせて来る太い骨である せきをしてもひとり |
評 者 |
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備 考 |
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