ごん狐、外語学校とは? わかりやすく解説

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ごん狐、外語学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 18:16 UTC 版)

新美南吉」の記事における「ごん狐、外語学校」の解説

1932年、『赤い鳥1月号に『ごん狐』が掲載される帰郷した南吉は両親外語学校受験願い出て許可される3月東京外国語学校英語部文科受験志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐり、見事合格4月入学上京当初結婚した巽聖歌の家に下宿し2学期学校寮に入った。寮のある中野区上高田には巽の他、与田凖一藪田義雄転居し、南吉は充実した学生生活送った。また白秋指導のもと童謡創作、『赤い鳥』に掲載された。しかし、1933年4月白秋鈴木三重吉大喧嘩の末『赤い鳥』と絶縁。南吉もこれに従い赤い鳥』への投稿をやめる。さらに『チチノキ』が経済的理由のため休刊。南吉は新し童謡同人誌発行計画するが、門下分裂恐れ白秋反対したため断念作品発表の場を失ってしまう。7月与田凖一紹介長編童話大岡越前守執筆するが、出版社から史実と違うという理由拒否される。この原稿日の目を見たのは南吉死後のことである。1934年2月16日第一回宮沢賢治友の会出席2月25日結核のため喀血する。南吉は実家帰り1か月あまり療養したのち、4月学校に戻る。1935年2月11日チチノキ1年半ぶりに発行され童謡翻訳発表するが、5月廃刊となる。フランス語科河合弘に自分から声をかけ、友人になる。5月、巽が精文館から幼年童話依頼回してくる。南吉は「デンデンムシノカナシミ」など50篇ものカタカナ童話量産するが、無名新人という理由出版不可となる。しかし、作品書いた経験が南吉にとって大きな自信になった8月木本別れる病弱な南吉が結婚躊躇したのが原因だった。

※この「ごん狐、外語学校」の解説は、「新美南吉」の解説の一部です。
「ごん狐、外語学校」を含む「新美南吉」の記事については、「新美南吉」の概要を参照ください。

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