ごん狐、外語学校
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1932年、『赤い鳥』1月号に『ごん狐』が掲載される。帰郷した南吉は両親に外語学校受験を願い出て許可される。3月、東京外国語学校英語部文科受験。志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐり、見事合格。4月入学、上京。当初、結婚した巽聖歌の家に下宿し、2学期に学校寮に入った。寮のある中野区上高田には巽の他、与田凖一、藪田義雄も転居し、南吉は充実した学生生活を送った。また白秋指導のもと童謡を創作、『赤い鳥』に掲載された。しかし、1933年4月、白秋が鈴木三重吉と大喧嘩の末『赤い鳥』と絶縁。南吉もこれに従い『赤い鳥』への投稿をやめる。さらに『チチノキ』が経済的理由のため休刊。南吉は新しい童謡同人誌発行を計画するが、門下の分裂を恐れる白秋が反対したため断念。作品発表の場を失ってしまう。7月、与田凖一の紹介で長編童話『大岡越前守』執筆するが、出版社から史実と違うという理由で拒否される。この原稿が日の目を見たのは南吉死後のことである。1934年、2月16日、第一回宮沢賢治友の会出席。2月25日、結核のため喀血する。南吉は実家に帰り1か月あまり療養したのち、4月に学校に戻る。1935年、2月11日、チチノキが1年半ぶりに発行され、童謡や翻訳を発表するが、5月廃刊となる。フランス語科の河合弘に自分から声をかけ、友人になる。5月、巽が精文館から幼年童話の依頼を回してくる。南吉は「デンデンムシノカナシミ」など50篇ものカタカナ童話を量産するが、無名の新人という理由で出版不可となる。しかし、作品を書いた経験が南吉にとって大きな自信になった。8月、木本と別れる。病弱な南吉が結婚に躊躇したのが原因だった。
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