有馬喜惣太(ありまきそうた 1708-1769)
有馬喜惣太は長門国阿武郡生雲村に生まれ、御用絵師の雲谷等達の弟子として修行し、元文2 年(1737)に藩が進めていた村絵図作成の絵図方雇いとなった。村絵図は、宝暦 4年(1754)に完成を見たが、有馬はそれまでに絵図師としての技量を高め、引き続き絵図方として藩に勤め、宝暦12年には藩士(郡方地理図師)に登用された。
有馬は村絵図「一村限明細絵図」のほか、道中絵図の「御国廻御行程記」や「萩大絵図」(宝暦元年 1751)などを作成にあたった。「御国廻御行程記」に示された街道筋の山並みや家々は色彩豊かに生きいきと描写された見事なものである。
晩年になり大型地形模型「防長土図」を作成したが、等高線など標高データがない時代にこれだけのものを作成したことは驚異といえる。現存する「防長土図」は、本土と大島、豊前・筑前国が17の「切」と呼ばれる部分と、周辺の島々が92個からなっている。「土図」は粘土で土形を作りその上に厚手の和紙を何枚も張り重ね、乾燥後に土型を抜き取る方法で作成され、杉材でできた「土図長持」に納められている。本来土図は全体で、122個存在していたらしく、明治時代に引継を記録した「入り日記」によると、そのときは 108個が存在していたことが明らかになっている。土図の縮尺は5寸1里(2万5920分の1)、垂直の倍率は4~5倍で全体を接合すれば、最大幅2.8m、長さ5mを越す大きなものである。
さらに、山を淡緑色、平地および谷筋を薄桃色、海岸の砂地を白色、水系を濃青色、境界線を黒線、道路を朱線で表すとともに、集落や寺社、そして地名などを貼紙で表現した土図は、故郷の山々を知り尽くした男こそができる技であり、精魂を傾けた労作である。「防長土図」完成(明和 4年 1767)の2年後にこの世を去った。

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