『無法松の一生』への出演
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「園井恵子」の記事における「『無法松の一生』への出演」の解説
1943年、園井は当時最大級のスターであった阪東妻三郎の相手役・「吉岡夫人」役として、映画『無法松の一生』に出演する。吉岡夫人役には当初水谷八重子、次いで入江たか子が候補として挙がっていたが、両名の所属会社はこれを断り、代わって候補となった小夜福子も妊娠中で出演不可との返事であった。制作側は「あまり動かない役だから、ともかく一度お会いしたい」と食い下がり、後日設けられた両者の面会の場で、小夜はすでに大きくなった腹を見せた上で「私よりぴったりだと思う」と園井を紹介。このとき園井はアスピリン中毒で口周りに湿疹を生じたためマスク姿で、監督の稲垣浩が別室に連れだしてマスクを取るよう促したが、園井は「この顔を見られるぐらいなら、もうお断りします」と涙ながらに拒否し、完全な顔合わせのないまま、小夜の言葉を信じて起用が決まった。 撮影に入ると園井は顔合わせの頼りなさからは打って変わって真摯に役作りに取り組み、「松五郎」役の阪東ともども、撮影中以外にも役に入りきっていたという。逸話だが、この時の子役は沢村アキオ(のちの 長門裕之 )だったが、結婚するならば園井のような女性がいいと言っていた。稲垣は、その後の新作の出演も園井に打診しているが、後年、当時を振り返る際には「彼女は芸達者ではなく、芸熱心だった。役の人になりきるという基本をしっかり身につけた人だった」等と評している。 完成した『無法松の一生』は検閲により約10分間に相当するフィルムに鋏が入れられてしまったが、稲垣が「こんなにほめられていいのかしらと思うぐらい」の好評を博し、園井の名も映画スターとして一躍全国区のものとなった。当年の興行収入ランキングでは黒澤明の初監督作品『姿三四郎』を上回り、『伊那の勘太郎』に次ぐ第2位の成績を挙げた。稲垣は試写後の手紙で「何か貴女に適当な役があった場合は、また飛んでいくかも知れません。映画にはこりごりでも、せめて僕のモノには出てほしい」と綴っている。園井自身はのちに「『無法松』のときは初めてで、お相手の方もずいぶん歯がゆくお思いになったでしょうと、恥ずかしくてたまらない」と自省し、稲垣監督、宮川一夫撮影で再度映画に出演することを願っていたという。なお、後に稲垣は映画『乞食大将』の主演に園井を推薦し、また『無法松-』の演技に感心した山本嘉次郎も脚本用意の上で起用を図ったが、いずれも出演は実現しなかった(#逸話)。 『無法松-』のあと大映は園井に専属契約を持ちかけたが、園井は「当分、苦学座の人たちと舞台の修行をしたい」としてこれを断った。なお、1943年4月のもので、東宝との契約交渉についての手紙も残されており、東宝からは給与、出演範囲の提示、苦楽座や映画への出演は自由、といった具体的な条件が示されていたが、園井は後援者である中井志づへの手紙で給与や出演範囲についての不満を漏らしており、その後どのように交渉したか不明であるが、締結に至らなかった。
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