『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』
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『太平記』巻第21「塩冶判官讒死之事」(えんやはんがんざんしのこと)には「先帝(後醍醐天皇)ノ御外戚早田宮ノ御女」が登場する。同書によれば、名を「弘徽殿ノ西ノ台」といい、出雲守護・塩冶判官高貞の妻であったが、足利尊氏の執事・高師直は、美女として評判が高かった彼女に恋慕の念を抱いて吉田兼好に代筆させた恋文を西台へ送り、その後、彼女の湯上り姿を覗き見して一層恋心を募らせながらも、西台から拒絶されたことで、師直は彼女の夫・塩冶判官を中傷して謀反の疑いをかける。1341年(暦応4年)3月、西台とその子らは密かに京都を出奔し領国の出雲に向かうが、山名時氏らの追討を受けて妻子共々播磨の蔭山(兵庫県姫路市豊富町)にて自害(一説に家臣の手で斬死)したとされ、妻子の訃報を出雲宍道郷の佐々布山で聞いた高貞は、師直への恨みの言葉を叫びながら馬上で腹をかき切って自害したという。 人形浄瑠璃および歌舞伎の演目である『仮名手本忠臣蔵』は、江戸時代の1701年(元禄14年)から翌1702年(元禄15年)にかけて起こった元禄赤穂事件を竹田出雲・三好松洛・並木千柳らが取材して制作したもので、1748年(寛延元年)に初演された。しかし、事件に関わった人物の実名を用いて上演することができなかったため、竹田らは『太平記』にある塩冶判官と高師直の事件をモチーフに利用し、事件の中心的人物である吉良上野介には高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのう)の、浅野内匠頭には塩冶判官高定(えんやはんがんたかさだ)の名をそれぞれ充てることとなった。塩冶判官の美貌の妻として登場する「顔世御前」が、『太平記』に登場する早田宮ノ御女西台に当たる。 塩冶高貞の子孫については諸説あるが、『羽衣石南条記』によれば伯耆羽衣石城主南条氏の祖・南条貞宗は高貞の第二子であったという。
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