『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』の意味・解説 

『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/23 06:38 UTC 版)

早田宮」の記事における「『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』」の解説

『太平記』巻第21塩冶判官讒死之事」(えんやはんがんざんしのこと)には「先帝後醍醐天皇)ノ御外戚早田宮ノ御女」が登場する同書によれば、名を「弘徽殿西ノ台」といい、出雲守護塩冶判官高貞の妻であったが、足利尊氏執事高師直は、美女として評判高かった女に恋慕の念を抱いて吉田兼好代筆させた恋文西台送りその後、彼女の湯上り姿を覗き見して一層恋心募らせながらも、西台から拒絶されたことで、師直は彼女の夫・塩冶判官中傷して謀反疑いをかける。1341年暦応4年3月西台その子らは密かに京都出奔し領国出雲に向かうが、山名時氏らの追討受けて妻子共々播磨の蔭山(兵庫県姫路市豊富町)にて自害一説家臣の手斬死)したとされ、妻子訃報出雲宍道郷の佐々布山聞いた高貞は、師直への恨み言葉叫びながら馬上で腹をかき切って自害したという。 人形浄瑠璃および歌舞伎の演目である『仮名手本忠臣蔵』は、江戸時代1701年元禄14年)から翌1702年元禄15年)にかけて起こった元禄赤穂事件竹田出雲三好松洛並木千柳らが取材して制作したもので、1748年寛延元年)に初演された。しかし、事件関わった人物実名用いて上演することができなかったため、竹田らは『太平記』にある塩冶判官高師直事件モチーフ利用し事件中心的人物である吉良上野介には高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのう)の、浅野内匠頭には塩冶判官高定えんやはんがんたかさだ)の名をそれぞれ充てることとなった塩冶判官美貌の妻として登場する顔世御前」が、『太平記』登場する早田宮ノ御女西台に当たる。 塩冶高貞の子孫については諸説あるが、『羽衣石南条記によれば伯耆羽衣石城南条氏の祖・南条貞宗は高貞の第二子であったという。

※この「『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』」の解説は、「早田宮」の解説の一部です。
「『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』」を含む「早田宮」の記事については、「早田宮」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』」の関連用語

1
38% |||||

『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『太平記』に登場する「早田宮ノ御女」と『仮名手本忠臣蔵』のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの早田宮 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS