『太平記』版湊川の戦いとは? わかりやすく解説

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『太平記』版湊川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)

楠木正成」の記事における「『太平記』版湊川の戦い」の解説

軍記物語『太平記』16兵庫海陸寄手事」では、湊川の戦いで、正成は他家軍勢入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し陸地から攻めてくる敵に備えていた。正成も義貞も足利方の大軍に対して少しもひるむことはなかったという。 続く流布本16「正成兄弟討死の事」では、連合軍多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢引き離されてしまった。正成は正季に「敵に前後遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした。 正成は700余騎を引き連れ足利直義軍勢突撃敢行した。菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正季は奮戦し良き敵と見れば戦ってその首を刎ね良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦いついには直義近くまで届き足利方の大軍蹴散らして須磨上野まで退却させた。直義自身薬師寺十郎次郎奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた。 だが、尊氏直義退却するのを見て、「軍を新手入れ替えて直義討たせるな」と命じた。そのため、吉良氏高氏上杉氏石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけ後方遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手軍勢立ち向かった6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍16度の突撃行い楠木軍は次第に数を減らし、ついに73になっていた。疲弊した彼らは湊川の東にある民家駆け込んだ。 正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷負っていた。正成は正季と共に自害し果て橋本正員宇佐美正安神宮寺正師和田正隆一族16人、家人50余人もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ

※この「『太平記』版湊川の戦い」の解説は、「楠木正成」の解説の一部です。
「『太平記』版湊川の戦い」を含む「楠木正成」の記事については、「楠木正成」の概要を参照ください。

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