『太平記』史観による暗君像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「後醍醐天皇」の記事における「『太平記』史観による暗君像」の解説
『太平記』(1370年ごろ完成)の巻1「後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事」(流布本)では、後醍醐天皇は初め名君として登場し、「天に受けたる聖主、地に報ぜる明君」と賞賛される。ところが、巻12から13で、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開く段になると、今度は一転して完全なる暗君として描写されるようになる。例として、恩賞の配分に偏りがあったり、無思慮に大内裏造営を計画したり、地頭・御家人に重税を課したり、唐突な貨幣・紙幣発行を打ち出したり、武士の特権階級である御家人身分を取り上げたりと、頓珍漢な政策を繰り返し、さらに側近の公卿千種忠顕や仏僧文観が権勢に驕り高ぶり奢侈を極めるなど、人々の反感を買っていく。しかも、賢臣の万里小路藤房は後醍醐天皇にこうした悪政を諌めたが、全く聞き入れられなかったので、建武政権に失望し、僧侶となって遁世した、という物語が描かれる。 亀田俊和の主張によれば、このような「『太平記』史観」が後世を呪縛し続け、後醍醐天皇と建武政権への評価を固定的なものにしてしまったのだという。 その他にも、南北朝時代の作品で後醍醐天皇の暗君像に関与したものとして、『梅松論』、風刺文『二条河原の落書』といった文書等々を挙げることができる。
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