『太平記』での描写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 10:23 UTC 版)
『太平記』では、南朝方で四条隆資・楠木正家・三輪西阿、幕府方で細川頼春・細川清氏・今川範国なども参戦しているが史実かは不明。史実では討死したか不明な大塚惟正(楠木惟正)も戦死したことにされてしまっている。日付も細かい部分が違う(師直が八幡から出陣したのが1月3日になっているなど)。 また、楠木正行の本陣は往生院だったと描かれる。正行は玉砕を心に決め、決死の覚悟を歌にして、「返らじと かねて思へば あづさ弓 なき数にいる 名をぞとゞむる」の辞世の句を残したという逸話で有名だが、四條畷の戦いが玉砕覚悟の戦いだったというのは複数の研究者から否定されている(楠木正行#玉砕戦か否か)。 両軍の兵数は幕府軍60,000(堺に待機する師泰軍と合わせると80,000)、南朝軍3,000と、『太平記』特有の大幅な誇張表現がなされている。ただ、討死した武将の数については、「和田・楠が兄弟4人と一族23人」と書かれており、これは史実と一致するため(一族と言っていいか不明な武将も含まれるとはいえ)、著者らがそれなりに取材を行った上で、話を面白くするためにあえて雑兵の数を誇張した事情は伺われる。
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