『太平記』での藤島城とは? わかりやすく解説

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『太平記』での藤島城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 14:19 UTC 版)

藤島城 (越前国)」の記事における「『太平記』での藤島城」の解説

北朝方の斯波高経南朝方の新田義貞との越前における争乱勃発すると、当初北朝方に与していた天台宗寺院霊応山平泉寺(福井県勝山市)の衆徒僧兵)の一部南朝方に造反し、延元3年/建武5年1338年2月日野川戦い参戦して斯波高経越前国府から小黒丸城敗走させた。 しかし、藤島荘(福井市藤島町)の年貢取り分めぐって本山比叡山延暦寺係争状態にあった平泉寺は、北朝方に付くことを条件斯波高経から藤島領有権安堵されると再び北朝方となり、藤島城立て籠もった。これにより、斯波籠る小黒丸城などの足羽七城への攻撃開始していた新田軍の部隊同年7月2日藤島城包囲した藤島の戦い)。 燈明寺『太平記』西源院本」では「東郷寺」)に布陣し負傷者状況見回っていた新田義貞は、自軍藤島城籠る平泉寺衆徒頑強な抵抗にあって苦戦していると聞き、僅か50の手勢を連れて督戦向かった。 ところが小黒丸城から藤島城救援出撃した斯波方の細川出羽守・鹿公相軍勢300騎に燈明寺畷付近で偶然遭遇してしまい、弓兵多く連れていた細川・鹿軍から一斉射撃を受ける。弓どころかすら持たなかった新田軍は崩壊し、馬を射られ倒れた義貞は、立ち上がり様に眉間に矢を喰らい自ら首を切って自害した

※この「『太平記』での藤島城」の解説は、「藤島城 (越前国)」の解説の一部です。
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