橘正遠とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 橘正遠の意味・解説 

橘正遠

(和田正隆 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 23:50 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
橘正遠
和田五郎正隆(右上)と八尾別当顕幸(左下)、歌川貞秀
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 不明
別名 『太平記』:和田五郎、和田五郎正遠[1]、和田五郎正隆[2]
官位 無位無官、贈正四位
主君 楠木正成?、後醍醐天皇
氏族 ・本姓橘氏
楠木氏
河内和田氏
テンプレートを表示

橘 正遠(たちばな の まさとお)は、南北朝時代の軍事官僚。建武の新政武者所に務めた。軍記物太平記』では、彼をモデルにしたと思われる和田 正遠(わだ まさとお)、もしくは和田 正隆(わだ まさたか)、通称五郎(ごろう)という武将が、楠木正成の配下として登場し、正成の弟正季と並ぶ片腕として活躍する。

生涯

元弘の乱鎌倉幕府に勝利した後醍醐天皇が、元弘3年/正慶2年(1333年)6月に建武の新政を開始すると、復活した(事実上の新設)軍事政務機構である武者所の官僚に抜擢される(『建武記[3])。全六番のうち所属は五番で、楠木正成と同じである[3]。武者所全65名のうち、彼のみ無位無官であり[3]、かなり異様な存在である。

表には「橘正遠」とあるのみだが、多くの人物が本姓で記されているため、正遠は一応楠木氏(もしくはその同族の河内和田氏)の人と見ていいとは考えられる。同族では楠木正家常陸国(茨城県)という遠方に派遣される一方で、橘正遠は中央政権での勤務に選ばれているから、正遠は史実でも正成の片腕的存在だったのだろう。

なお、『尊卑分脈』所収『橘氏系図』[4]では、楠木正成の父の名前も橘正遠(楠木正遠)とされるが、正成父との関係は不明。正成父は家系図によって名前が大きく違う。

大正3年(1914年11月19日、贈正四位[5]

『太平記』

軍記物『太平記』での初登場は、巻3「赤坂城軍の事」(流布本)で、楠木正成の挙兵に当初より従い、元弘元年(1331年)9月11月ごろより始まった赤坂城の戦いに参戦[1]。正成の弟楠木正季と共に300余騎を従えて城の側の山にひそみ、時期を見計らって正季と共に遊撃兵を二手に分け、赤坂城に引きつけられた敵を、側面から奇襲して蹴散らすという武功をあげる[1]

その後、楠木正成が元弘の乱に勝ち鎌倉幕府が崩壊すると、後醍醐天皇建武の新政を開始するが、天皇と足利尊氏との対立から延元の乱が発生してしまう。

そして、戦局は二転三転したが、後醍醐天皇側不利の状況で開戦した建武3年/延元元年5月25日1336年7月4日)の湊川の戦いで、正成は700余騎が73騎になるまで奮戦したが、ついに覚悟を決めて弟の正季や腹心の武将たちと共に自害した(流布本巻16「正成兄弟の討死の事」[6])。正成と共に殉死した武将の中に「和田五郎正隆(わだごろうまさたか)」という名前があり、徳川光圀大日本史』はこれを正遠と同人物であるとしている[2]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 博文館編輯局 1913, pp. 66–72.
  2. ^ a b 徳川 1900.
  3. ^ a b c 建武年間記 1932, pp. 754–755.
  4. ^ 藤原 1903.
  5. ^ 妻木忠太 編『維新後大年表』有朋堂書店、p.423(1925)
  6. ^ 博文館編輯局 1913, pp. 467–469.

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「橘正遠」の関連用語

橘正遠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



橘正遠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの橘正遠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS