『ル・シッド』論争への返答
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「ピエール・コルネイユ」の記事における「『ル・シッド』論争への返答」の解説
コルネイユが劇作に復帰したのは1640年のことだった。『ル・シッド』論争で、コルネイユは、古典的な劇のルールに細心の注意を払うことにした。その証拠はさっそく作品に現れる。『オラース』 Horace (1640年。リシュリューに献呈)、『シンナ』 Cinna (1641年)、『ポリウクト』 Polyeucte (1643年)はいずれも古典的な悲劇だった。この3作と『ル・シッド』は、一般にコルネイユの四大悲劇と呼ばれている。さらにコルネイユはアカデミーの批判に応えるため、三一致の法則に近づけた『ル・シッド』の複数の改訂版(1648年、1660年、1682年)も作った。そこにはもう「悲喜劇」の副題はついておらず、代わりに「悲劇」となっていた。 1640年代中頃には、コルネイユは絶大な人気を誇るようになっていて、最初の戯曲集も出版された。1641年にはマリー・ド・ランペリエールと結婚、7人の子供をもうけた。1640年代の中頃から後半にかけて、コルネイユは多くの悲劇を書いた。『ポンペイの死』 La Mort de Pompée (1644年初演)、『ロドギューヌ』 Rodogune (1645年初演)、『テオドール』 Theodore (1646年初演)、『エラクリウス』 Héraclius (1647年初演)。さらに喜劇も1本書いている。『嘘つき男』 Le Menteur (1644年)である。 1652年、『ペルタリト』 Pertharite が不評で、落胆したコルネイユは再び筆を断った。 その代わり、トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』の翻訳に没頭し、それは1656年までかかった。 コルネイユが劇作に戻ったのは、1659年になってからで、その時書かれた『エディップ』 Oedipe はルイ14世に大変気に入られた。その翌年、『劇的詩に関する3つの会話』Trois discours sur le poème dramatique という本を出した。この本は『ル・シッド』論争に対する返答のように見える。本の中で、彼は古典劇の鉄則の重要性を説きながら、同時に『ル・シッド』でその鉄則を破ったことを正当化している。彼はこう主張する。三一致の法則のよりどころであるアリストテレスの劇の指針はけっして文字通りに読むものではない、解釈は自由である。古典劇の鉄則は確かに間違ってはいないが、だからといって、スタイルの革新を専制的に抑圧すべきではない、と。
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