「17世紀の全般的危機」論
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「ヒュー・トレヴァー=ローパー」の記事における「「17世紀の全般的危機」論」の解説
トレヴァー=ローパーの提唱した有名な学説に「17世紀の全般的危機」論がある。トレヴァー=ローパーは、17世紀中葉の西ヨーロッパには人口的、社会的、宗教的、経済的、そして政治的な諸問題が一度にのしかかり、政治、経済、社会の深刻な衰退が見られたと主張した。この「全般的危機」とはイングランド内戦、フランスのフロンド内戦、ネーデルラント(八十年戦争)、ポルトガル(ポルトガル王政復古戦争)、ナポリ、カタルーニャ諸国のスペイン帝国に対する諸反乱、そして混乱の頂点であるドイツの三十年戦争などからなり、トレヴァー=ローパーはこれらは全て共通の問題から生じたものであったとする。トレヴァー=ローパーによれば、この「全般的危機」の最大の原因は、「宮廷」と「地方」の対立であった。すなわち中央集権化、官僚制化を進展させる主権国家の君主に代表される「宮廷」と、封建的伝統、地域、領地を基盤とする貴族、ジェントリら「地方」諸勢力の間に根深い対立があり、それが17世紀ヨーロッパに混迷の時代をもたらした、とトレヴァー=ローパーは考えたのである。加えて、宗教改革とルネサンスがもたらした精神的、宗教的変化も、「全般的危機」の重要な副次的原因だとする。 「全般的危機」論は、17世紀ヨーロッパの諸問題はトレヴァー=ローパーが考えるよりもっと深く社会的、経済的な部分に根ざしていると考える、エリック・ホブズボームのようなマルクス主義の歴史家との間に大きな論争を巻き起こした。オランダ人歴史家イヴォ・シェーファー、デンマーク人歴史家ニールス・ステーンスガールド、ソ連人歴史家A・D・ルブリャンスカヤといった第三のグループは、そもそも「全般的危機」などは存在しなかったと主張した。トレヴァー=ローパーの「全般的危機」論には、ロラン・ムニエ (en) 、ジョン・エリオット (en) 、ローレンス・ストーン、E・K・クロスマン、エリック・ホブズボーム、J・H・ヘクスターといった17世紀ヨーロッパ史の専門家の間で賛否両論があり、彼らの間で大きな議論を巻き起こした。 時がたつにつれ、論争は白熱したものになっていった。イタリアのマルクス主義歴史家ロサリオ・ヴィラーリは、トレヴァー=ローパーとムニエの研究に対して、以下のように述べた、「官僚制の発展と国家確立への欲求の間の不均衡という仮説は、あまりに曖昧で信用するに足らず、うぬぼれの強い修辞に頼ったもので、有用な分析というよりは政治的保守主義の産物である」。そしてヴィラーリは続けてトレヴァー=ローパーがヴィラーリの言うところの「イングランド革命」(マルクス主義者によるイングランド内戦を指す語)の重要性を貶めていることを非難し、トレヴァー=ローパーの言う「全般的危機」は観念的な意味でのヨーロッパ全体の革命運動の一部である、と主張する。トレヴァー=ローパーを非難したもう一人のマルクス主義史家はソ連のA・D・ルブリャンスカヤで、彼女は「宮廷」と「地方」の対立という概念を虚構であるとして攻撃し、そのうえで「全般的危機」など存在しなかったと断じた。ルブリャンスカヤは、トレヴァー=ローパーが「全般的危機」と呼んだものは、単なる資本主義の勃興期に現れた通常の歴史的作用に過ぎないと切り捨てた。
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