「い(かながしら・いちはら)」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:46 UTC 版)
「五山送り火」の記事における「「い(かながしら・いちはら)」」の解説
京都市左京区静市市原町京都市左京区鞍馬二ノ瀬町 市原の村の裏山で灯されていたもの。市原野小学校創立百周年事業委員会による『いちはらの』(1976)の中で、坪井正直は、担当する家に死者が多かったことや経費上の問題から明治初年に廃止されたとしているという。 だが、京都精華大学の小椋純一によれば、京都新聞の前身である日出新聞では、明治30年代の初め頃まで点火されていた事が確認できるという。小椋はこの時期に「大文字」が松の木に隠れて見えにくくなりそれを伐採したと言う記録があることから、「い」についても同様な状態であり、また、「大文字」手前の樹木は民有であったものが「い」手前の樹木は官有の物であったため伐採が行えず、また「い」自体の重要度も低かったことから、市原の住民の意欲を削ぐなどしたことが廃止の一要因ではなかったか、との説を唱えている。 平成30年(2018年)、京都大学霊長類研究所の正高信男教授は、江戸時代の文献などを手がかりに実地調査を繰り返した結果、京都市左京区の鞍馬二ノ瀬町の「安養寺山」に、縦5メートル、横15メートルほどのL字型に削った跡が3か所、見つかったと発表した。この跡は、現在も使われている文字や形に火をともす場所に似ており、正高教授はここで「い」の送り火が行われたと推測している。正高教授は、向山で「い」の送り火が行われていたという説について、各地の送り火にはそれを担う寺社があるが、向山には存在しない。また、江戸時代の地図には「い」の文字は賀茂川の東側に描かれているが、向山だと西になるのでおかしいと指摘している。正高教授の発表について、小椋教授は、向山とは別の山に「い」の文字があったとするのは不可解だと指摘し、ほかの文字の送り火を行っていた可能性もあり、さらに調査が必要だとしている。小椋教授は、送り火に向山が使えないときの代替手段として安養寺山を使ったのかもしれないと推測している。また、この発表について、京都の伝統行事や祭事に詳しい佛教大学の八木透教授は、現時点では確定的なことは言えないものの信憑性がある見解だとし、その根拠について、 鞍馬二ノ瀬町の山が京都市内から見えること 平坦な土地に火をともす場所、「火床」とみられる痕跡が見つかったこと この山は市原の集落からも見ることができ、「い」の文字が集落の頭文字だったとしても位置関係はおかしくないこと などを挙げている。そのうえで、八木教授は、現時点では確定的なことは言えず、現地調査も含めたさらなる研究が必要になってくるとしている。
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