「高見沢文書」における甲斐・諏訪間の道とは? わかりやすく解説

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「高見沢文書」における甲斐・諏訪間の道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 20:45 UTC 版)

棒道」の記事における「「高見沢文書」における甲斐・諏訪間の道」の解説

棒道戦国時代古文書や『高白斎記』、『勝山記』など武田氏側の記録、「守矢家文書」など信濃記録史料にも一切みられず、長野県南佐久郡佐久穂町高野町の「高見沢文書」に含まれる天文21年1552年10月6日武田晴信印判状初見とする説がある。 高見沢氏は佐久郡高野海ノ口土豪で、戦国期には高見沢左衛門尉高見沢美濃守存在知られる高見沢左衛門尉天正10年1582年3月武田氏滅亡後所見見られ高野町衆の中心的な人物であった考えられている。なお、両者の「高見沢名字高野海ノ口有力者名乗った家名であることが指摘され同族であるかは不明とされる高見沢文書含まれる武田晴信印判状は、甲府から信濃諏訪郡へ至る道の建設を「勧進」により行わせ木々伐採命じている内容で、武田氏朱印があるが宛名部分はすり消されている。高見沢文書には甲斐諏訪間の道が「棒道」であるとは記されておらず、評価巡って論争がある(後述棒道論争)。 (龍朱印) 従甲府諏訪郡へ之路地之事、致勧進可作之、同雖何方之山、剪木可懸橋者也、仍如件天文廿一年十月六日異筆か)「本願□□□」 — 「高見沢家文書武田家朱印状 甲斐国守護武田氏信虎後期から佐久郡など信濃への出兵行っているが、武田晴信家督継承後に信濃侵攻本格化させ、高見沢文書天文21年段階では中南地域まで確保し信濃旧族の村上氏小笠原氏駆逐し川中島の戦いに至る越後上杉氏対決本格化している時期にあたり長野県茅野市方面最短で至るように作られている。天文17年1548年)の塩尻峠の戦いにおいて重要な役割果たしたとされる

※この「「高見沢文書」における甲斐・諏訪間の道」の解説は、「棒道」の解説の一部です。
「「高見沢文書」における甲斐・諏訪間の道」を含む「棒道」の記事については、「棒道」の概要を参照ください。

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