「高見沢文書」における甲斐・諏訪間の道
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「棒道」の記事における「「高見沢文書」における甲斐・諏訪間の道」の解説
棒道は戦国時代の古文書や『高白斎記』、『勝山記』など武田氏側の記録、「守矢家文書」など信濃の記録史料にも一切みられず、長野県南佐久郡佐久穂町高野町の「高見沢文書」に含まれる天文21年(1552年)10月6日付武田晴信印判状を初見とする説がある。 高見沢氏は佐久郡高野・海ノ口の土豪で、戦国期には高見沢庄左衛門尉・高見沢美濃守の存在が知られる。高見沢庄左衛門尉は天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後に所見が見られ、高野町衆の中心的な人物であったと考えられている。なお、両者の「高見沢」名字は高野・海ノ口の有力者が名乗った家名であることが指摘され、同族であるかは不明とされる。 高見沢文書に含まれる武田晴信印判状は、甲府から信濃諏訪郡へ至る道の建設を「勧進」により行わせ木々の伐採を命じている内容で、武田氏龍朱印があるが宛名部分はすり消されている。高見沢文書には甲斐・諏訪間の道が「棒道」であるとは記されておらず、評価を巡っては論争がある(後述の棒道論争)。 (龍朱印) 従甲府諏訪郡へ之路地之事、致勧進可作之、同雖何方之山、剪木可懸橋者也、仍如件、 天文廿一年十月六日(異筆か)「本願□□□」 — 「高見沢家文書」武田家朱印状 甲斐国守護の武田氏は信虎後期から佐久郡など信濃への出兵を行っているが、武田晴信は家督継承後に信濃侵攻を本格化させ、高見沢文書の天文21年段階では中南信地域まで確保し信濃旧族の村上氏や小笠原氏を駆逐し、川中島の戦いに至る越後上杉氏の対決が本格化している時期にあたり、長野県茅野市の方面へ最短で至るように作られている。天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて重要な役割を果たしたとされる。
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