「見る・見られる」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:11 UTC 版)
安部は、「離脱というイメージにもいろいろなタイプがある」とし、実際にダンボール箱を被った乞食を目にしたこと以外に、「箱男」を想定した根拠のもう一つの理由として、「人間関係を〈見る〉〈見られる〉という視点からとらえてみようといったねらいがある」としつつ、新しい人間関係は、「〈見る〉ことには愛があるが、〈見られる〉ことには憎悪がある」という二つの深い均衡の上に生まれることを作品の中で実証したかったと説明し、また「覗く」という行為の意味については、「人称の入れ替え」だとし、以下のように語っている。 見るということはたいていは一人称だ。ところが、覗くと一人称でなくなる、つまり人称がなくなる。三人称ではないが疑似三人称化されるんだ。特に、覗かれている相手が、覗かれていることを意識していない場合にはね。ところで、小説というのは本来覗き的なものだ。とにかく作者が三人称で書くんだからね。まさに覗いている人のポジションじゃないか。覗くということを分析しようと思ったら、覗かれる立場の分析も抜きに出来ないね。人間のコミュニケーションというのは、考えてみると、面的であるよりも、意外に点的なものなんだ。 — 安部公房「都市への回路」 さらに、「覗き」の意味を、作中で触れられている生物のテリトリーの理論や、カメラのレンズを介したテリトリーの侵害と関連して以下のように語っている。 縄張りの中に入り込んでも、こちらが変装していれば、相手に気づかれずにすむ。だから覗き魔はふつう卑劣漢あつかいされてしまう。しかし、よく考えてみると、すごく繊細で知的な存在なんじゃないか。(中略)ふつう縄張りのラインを越えるときには、暴力か、さもなければ求愛かどっちかの行動をともなうことになる。覗きはそのどちらの行動もともなわない、完全な抽象的な行為だからね。ドストエフスキーが「人間を愛することはできても隣人を愛することはできない」というようなことを言っていたけど、まさしく覗き魔宣言だと思うな。覗きという行為は、人間的な繊細な感受性の産物なのかもしれない。とにかく動物には一切あり得ないことだからね。 — 安部公房「都市への回路」
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