「草履」の出どころ
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上で触れた『月堂見聞集』による実説には、鏡山物にとって重要なものが欠けている。それはいうまでもなく「草履」である。 『月堂見聞集』には、沢野が滝野に対してしたことについて「草履」は出てこない。ただ「御前」すなわち周防守の奥方の前で沢野が滝野を、「不調法不届者などと殊の外に叱り候」とあるだけである。では「草履」はどこから出てきたのか。 この事件の起きた享保8年(1723年)から数十年たつと、これについての「実録本」が多く書かれるようになった。実録本とは当時起こった事件等について虚実を交え記した小説である。現在知られる中で古いものと見られる実録本『女敵討実録』(京都大学所蔵)のなかに、中老のお道(『月堂見聞集』のものとは名が違っている)が奥方の急なお召しに慌て、局沢野の草履を間違えて履いてしまい、それを怒った沢野に「草履を蹴り付けられる」というくだりがある。この『女敵討実録』には「松平周防守」すなわち松平康豊のことを「老中」と称しているが、康豊は老中職についた事は無く、老中職についたのはその次の藩主松平康福である。康福が老中職にあったのは宝暦13年から天明8年(1763年〜1788年)のことであり、本書の成立も宝暦13年以降と見られる。ほかにも江戸期に書かれた鏡山物の実録本としては、記述を増減した色々な内容のものが写本として伝わるが、いずれもやはり「草履を蹴り付けられる」記述となっている。 『月堂見聞集』には見えなかった「草履」が、それより後に成立したと見られる実録本には出てくる。当時の実録本というのは加賀騒動を見てもわかるように、事実ではないことを面白おかしく書き綴る場合が多いので、実録本として仕立てる際に本来は無かった「草履」の話を潤色した可能性は高いといえる。天明2年(1782年)初演の浄瑠璃『加々見山旧錦絵』にはもちろん「草履」が出てくるが、この浄瑠璃もその以前からあった実録本をもとにしたと見られ、また上で述べた実録本の内容が、この浄瑠璃よりさきに既に巷間に流布していたらしいことが指摘されている。宝暦2年(1752年)刊行の青本『猿塚物語』にも「草履打ち」の趣向が見られる。つまり「草履」は、『加々見山旧錦絵』以前の実録本にもすでにあったということである。 しかしそもそも草履で以って人を殴るという「草履打ち」は、『加々見山旧錦絵』以前から歌舞伎の芝居に見られるものである。歌舞伎十八番のひとつにもなっている「不破名古屋」の芝居において、名古屋山三が不破伴左衛門から草履で殴られるという場面が元禄のころからあり、これが「不破名古屋」の芝居における見せ場のひとつになっていた。いずれにせよ実録本の「草履」の出どころについては何なのか明らかではないが、浄瑠璃『加々見山旧錦絵』は歌舞伎に従来からある「草履打ち」の趣向と、「草履」に結び付けられた巷説をうまく繋げて脚色したものといえよう。
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