「草絵」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:54 UTC 版)
若い頃から和紙好きで、様々なものに使った残りの和紙の切れ端を、小箱に貯めていた。その小箱が何かの拍子で手にひっかかり、小箱と中の和紙が畳の上に散らばり「そのときの得も言われぬ美しさ。それが心に深く刻みこまれた」。そして別の日、空の雲が象や竜のような姿に見えたことを機に、和紙の切れ端を自分の意の向くままの形に置いてみた。これが、草絵の始まりだった。 半年後、屏風を作った際に和紙の散らばった件を思い出し、和紙を屏風に散りばめた。ただ、「少し『いのち』が薄い」と感じて、墨筆で“いろは”の字を書き添えた。こうして草絵が誕生した。 草絵は草木染めの、糊で貼り付けた際に捲れにくい手漉きの和紙を使う。台紙に下絵を描かず、切った和紙を自在に貼り付ける。ぶっつけ本番で「台紙にはさみで切った小さな紙をぽんと一枚置くことで、次なるイメージにつなげていく」。 なお、下絵を描かず、ぶっつけ本番で制作する理由について「(下書きに合わせて和紙を貼るなら)“張り紙細工”または“切り抜き細工”であり、それ自身を絵とは言えない」といい、一方で「草絵を張り絵というなら、日本画や油絵は“ヌリ絵”ということになります」。 心がける点については、「鯉の滝登り」を例に出し、鯉の撥ねていない構図の絵が世間に多いと嘆いた上で、「私の絵はパッと撥ねてなけりゃいけないの。生き物はすべて生命感がみなぎっていることが大切」と、純真さ、純粋さを追求する。その理由は「今の世の中はそつなく、水準をちょっとでも超えてやれる人が褒められる」ためといい、「でも草絵は少々はみ出していても、足りなくても、個性や自分というものの命があふれているようなものであってほしい」から。 妣田自身は、草絵とは「きびしい人間修業の中での『紙の世界の遊び』」であり、「はき出した"ためいき"のような作品」も生まれるが、それらは「生活の詩であり、音楽であると同時に、良きも、悪きも、それぞれにそのまま私自身」と語っている。
※この「「草絵」について」の解説は、「妣田圭子」の解説の一部です。
「「草絵」について」を含む「妣田圭子」の記事については、「妣田圭子」の概要を参照ください。
- 「草絵」についてのページへのリンク