「商業の時代」から「開発の時代」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)
「ジョホール王国」の記事における「「商業の時代」から「開発の時代」へ」の解説
17世紀後半から18世紀の前半にかけて、オランダの台湾における根拠地であったゼーランディア城が鄭成功によって占領されたため、オランダが日本や清国向け商品であった砂糖、樟脳、鹿皮などを東南アジアの地域内で調達しなければならなくなったこと、胡椒の供給過多によって胡椒価格が大幅に下落したこと、日本からの銀の輸入が途絶えたこと、ヨーロッパで茶やコーヒーの消費が拡大し、また、キャラコブームが起こったことなどによって、東南アジア、とくに諸島部の国際貿易活動に大きな変化が生じた。 端的にいえば、東南アジア海域では銀不足もあってインド産の綿布や中国産のさまざまな商品を入手することが困難になっていったのである。これにより、中継貿易そのものが全体的に低迷し、以前のような利益が商業から得られなくなって、東南アジアにおける「商業の時代」は終わりを告げた。それは、交易に生きてきたジョホール王国にとって転機をせまるものであった。こうした状況の変化に対応する方法としては、輸入品の国産化と新しい輸出商品の開発が考えられる。上述の海産物や錫の開発などは新しい輸出商品をつくりだそうとする営為の事例といえる。いずれにせよ、こののちジョホール・リアウ王国を含めた東南アジアでは開発経済が指向されるようになった。東南アジアもまた「開発の時代」をむかえたのである。
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