「八重洲」の語源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:29 UTC 版)
「八重洲」という地名は、1600年(慶長5年)に帆船リーフデ号の乗組員として日本に漂着したオランダ人ヤン・ヨーステン(1556年? - 1623年)の名に由来する、というのが一般的な説明である。ヤン・ヨーステンは徳川家康に召し出されて国際情勢顧問や通訳として活躍、また朱印船貿易家としても活動した。その名は「ヤンヨウス」「ヤヨウス」等と呼ばれ「耶揚子:123(耶楊子)」などの漢字があてられた。彼が徳川家康から与えられた屋敷の周辺を「やよす河岸」等と呼ぶようになったのが、地名としての「八重洲」の起こりであるとされている。江戸時代には「八重洲河岸」「八代洲河岸」のほか、「耶揚子河岸」(『御府内備考』)、「八代曾河岸」(『江戸名所図会』『江戸砂子』)などさまざまな漢字表記があった。 ただし、江戸時代に「やよす河岸」と呼ばれていたのは、和田倉門から馬場先門周辺にかけての江戸城内濠(馬場先濠)沿い(現在の千代田区丸の内の日比谷通り沿い)である。つまり、「東京駅の西側が丸の内、東側が八重洲」という現代の印象に反して、「八重洲」はもともと「東京駅の西側」の「丸の内」に含まれる地域にあった地名であった。「八重洲」が「東京駅の東側」の地域名として定着し、「丸の内」の対と見なされるには、外濠に架かっていた八重洲橋という橋の存在と、東京駅の歴史が関わる(#歴史節参照)。 「八重洲」の地名のルーツとなったヤン・ヨーステンを記念するものとして、八重洲通りの中央分離帯(日本橋3丁目交差点)に「ヤン・ヨーステン記念碑」と「平和の鐘」(1989年、日蘭修好380周年記念として建立)、八重洲地下街に「ヤン・ヨーステン記念像」がある。また、丸の内側の丸ビル横に「リーフデ号」のブロンズ像がある。
※この「「八重洲」の語源」の解説は、「八重洲」の解説の一部です。
「「八重洲」の語源」を含む「八重洲」の記事については、「八重洲」の概要を参照ください。
- 「八重洲」の語源のページへのリンク