「八重洲」の考証史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:29 UTC 版)
「八重洲」という地名は江戸城内濠沿いにあったヤン・ヨーステンの屋敷に由来するという説明は、古く江戸時代の地誌類で唱えられており、通説とされる。ただし、ヤン・ヨーステンの屋敷が実際に内濠付近にあったことを確認できる一次史料・古地図類はなく、現代の辞事典類には断定を保留するものもある。 この地名が外国人に与えられた屋敷に由来するという説明の早い例は、1683年頃に成立した戸田茂睡の仮名草子『紫の一本(むらさきのひともと)』に見られる。この作品では、和田倉門前が「やようす河岸」と呼ばれていることを述べ、以下のように説明する。 和田倉御門の前を彌與三が河岸と云、昔彌與三(やようす)、八官、安針(あんじん)とて、三人の唐人下りしに屋敷を下さるゝ、其所を今彌與三河岸、八官町、安針町と云。 — 『紫の一本』巻上、「御城廻り」。『戸田茂睡全集』(国書刊行会、1915年)p.215(国立国会図書館デジタルコレクション) ともに紹介されている「安針」は、ヤン・ヨーステンとともにリーフデ号乗組員であったウィリアム・アダムス(三浦按針)で、屋敷地が安針町(現在の日本橋室町一丁目、日本橋本町一丁目)になったとされる。八官町(現在の銀座八丁目)の語源とされる「八官」(「ハチクワン」「ハチクハン」などとも)については、中国人とする説、ヤン・ヨーステンと同様にオランダ人とする説、朝鮮人キリシタンの常珍八官(ヨアキム破竹庵)と結び付ける説など、現代も諸説がある。 以後、江戸中期に成立した地誌『江戸砂子』、江戸時代後期に幕府が編纂した『御府内備考』などでも、この河岸の名が外国人の名に由来するという記述が継承されている。
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