「ポカホンタス事件」に対する疑問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 10:26 UTC 版)
「ポウハタン」の記事における「「ポカホンタス事件」に対する疑問」の解説
後に植民地の議長になったジョン・スミスは、1607年12月に、チカホミニー川を遡ってポウハタン族の領土を物色中、ワフンスナコックの弟であるオペチャンカナウに捕まえられたと後に語った。スミスは「最高位にある酋長」(これは白人の幻想である)に初めて会見した者となったと自称している。 スミスは男ぶりを誇示したがる、植民仲間の間でも評判のほら吹きだった。またインディアンを裸の野蛮人と呼び、彼らをこき使いたがることで有名だった。 このとき、スミスによるとひとつの「事件」があった。彼が1624年に書いた本の記述に拠れば、「野蛮なインディアンどもにつかまり、ワフンスナコック酋長によって百叩きの刑で殺されかけたが、酋長の娘ポカホンタスが、この処刑を身を挺してかばって助けた」ということである。 この真偽不明の武勇伝は、白人アメリカ人の間で「インディアンにも、身を呈して白人を救った“良いインディアン”がいた」という「美談」として、白人によるインディアンの領土侵略と「インディアン戦争」を美化する格好のプロパガンダとしてもてはやされることとなった。 多くの歴史家やインディアンが、これはスミスを部族の中に迎え入れるための単なる通過儀礼だろうとしている。が、現代の著作家にはその解釈に異論を唱えるものもいて、彼らは17世紀ポウハタン族の迎え入れ儀式について白人側が何も知らないことと、この種の儀式は白人に知られている通過儀礼と異なっていることを理由にしている。一方で、他の歴史家のなかで、例えばヘレン・ラウントリーやカミラ・タウンゼンドは、果たしてこのような出来事があったのかどうかを問題にしてきた。彼らはスミスが1608年と1612年の証言ではこのことに言及しておらず、ポカホンタスが有名になった後の1624年の自叙伝で初めて付け加えたことを指摘している。 また、スミスは「ポウハタン酋長が処刑を命じた」と書いているが、インディアンの酋長は「指導者」ではなく、誰かを処刑させるよう命令するような立場ではないし、命令するような権限も持っていない。儀式は呪い師が取り仕切るものであって、酋長が関与することではない。スミスはインディアンの社会システムをそもそも正確に理解していない。 またスミスの吹聴したこの「武勇伝」はこれがオリジナルでもなく、スミスの半世紀以上も前に、スペイン人エルナンド・デ・ソトが南東部でこれとそっくり同じ話を記録している。 どちらにせよ、スミスが武勇伝で語っている1607年12月というと、すでにポウハタン族はイギリス人たちと「和平の儀式」を交わした後であり、ポウハタン族にはスミスを処刑する理由が無い。また、そもそもポカホンタスは当時10歳程度の幼女であり、児童がそのような儀式に出席することはありえない。 ポウハタン族の現在の酋長であるロイ・クレイジーホースや、支族であるマッタポニ族のカスタロー酋長は、このスミスの美談そのものを「まったくの作り話」として否定している。
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