「エンヴェル・パシャの最後の冒険」とは? わかりやすく解説

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「エンヴェル・パシャの最後の冒険」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:58 UTC 版)

エンヴェル・パシャ」の記事における「「エンヴェル・パシャの最後の冒険」」の解説

エンヴェルはアナトリア帰ることを諦めトルキスタン新たな活躍舞台求めた当時トルキスタンムスリムによる反ソゲリラ、バスマチ活動が盛んであったため、ソ連政府テュルク系諸民族のあいだで名声を保つエンヴェルをトルキスタン赤軍送り込むことでバスマチへの支持を切り崩そう考えていた。 1921年10月、エンヴェルはソ連側思惑受けてトルキスタン中心都市ブハラ入った。彼はこのとき既にソ連から離れバスマチのもとに乗り込んで彼らを自らの子飼いとする計画持っていた。 11月8日、エンヴェルは猟を装って行方くらましバスマチ勢力圏入った。彼はこれ以後「大トゥラン革命軍司令官」と称し汎テュルク主義理想のもとにトルキスタン諸民族団結と対ソ連闘争呼びかけた。彼の究極目的トルキスタンテュルク諸族を率いてオスマン帝国復興することであったが、最初に同盟呼びかけバスマチ首領のひとり、山岳部族の族長イブラヒム・ベクによってエンヴェルは軟禁されてしまう。 翌年2月にエンヴェルはようやく釈放された。ソ連政府はエンヴェルと再び手を結ぶ可能性探っていたが、彼はこれを拒絶しタジキスタン地方転戦した3月にはドゥシャンベ占領したが、エンヴェルが実際に動員できる兵はわずかであり、セルゲイ・カーメネフ率い赤軍攻勢前に次第劣勢に追い込まれていった実情知れるにつれ、はじめエンヴェルへの協力申し出たアフガニスタンアマーヌッラー・ハーンなどもエンヴェルを見捨てていった。 エンヴェルは赤軍掃討作戦によって次第東方追い込まれていき、8月4日フェルガナ盆地東部のアビデルヤ休憩中に赤軍奇襲受けた。彼はなお付き従っていた30人部下とともに機関銃乱射する赤軍向かって最後突撃敢行し、壮烈な戦死遂げたといわれる。ただし、彼の死の状況めぐってはほかにもいくつかの異説がある。 半月ほどのち、彼の死は児童文学作家として有名なイギリスジャーナリストアーサー・ランサムによって「エンヴェル・パシャの最後の冒険」と題してヨーロッパ伝えられた。

※この「「エンヴェル・パシャの最後の冒険」」の解説は、「エンヴェル・パシャ」の解説の一部です。
「「エンヴェル・パシャの最後の冒険」」を含む「エンヴェル・パシャ」の記事については、「エンヴェル・パシャ」の概要を参照ください。

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