「エンヴェル・パシャの最後の冒険」
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「エンヴェル・パシャ」の記事における「「エンヴェル・パシャの最後の冒険」」の解説
エンヴェルはアナトリアへ帰ることを諦め、トルキスタンに新たな活躍の舞台を求めた。当時トルキスタンのムスリムによる反ソゲリラ、バスマチの活動が盛んであったため、ソ連政府はテュルク系諸民族のあいだで名声を保つエンヴェルをトルキスタンの赤軍に送り込むことでバスマチへの支持を切り崩そうと考えていた。 1921年10月、エンヴェルはソ連側の思惑を受けてトルキスタンの中心都市ブハラに入った。彼はこのとき既にソ連から離れ、バスマチのもとに乗り込んで彼らを自らの子飼いとする計画を持っていた。 11月8日、エンヴェルは猟を装って行方をくらまし、バスマチの勢力圏に入った。彼はこれ以後「大トゥラン革命軍司令官」と称し、汎テュルク主義の理想のもとにトルキスタン諸民族の団結と対ソ連闘争を呼びかけた。彼の究極の目的はトルキスタンのテュルク諸族を率いてオスマン帝国を復興することであったが、最初に同盟を呼びかけたバスマチの首領のひとり、山岳部族の族長イブラヒム・ベクによってエンヴェルは軟禁されてしまう。 翌年2月にエンヴェルはようやく釈放された。ソ連政府はエンヴェルと再び手を結ぶ可能性を探っていたが、彼はこれを拒絶し、タジキスタン地方で転戦した。 3月にはドゥシャンベを占領したが、エンヴェルが実際に動員できる兵はわずかであり、セルゲイ・カーメネフ率いる赤軍の攻勢の前に次第に劣勢に追い込まれていった。実情が知れるにつれ、はじめエンヴェルへの協力を申し出たアフガニスタンのアマーヌッラー・ハーンなどもエンヴェルを見捨てていった。 エンヴェルは赤軍の掃討作戦によって次第に東方へ追い込まれていき、8月4日にフェルガナ盆地東部のアビデルヤ村で休憩中に赤軍の奇襲を受けた。彼はなお付き従っていた30人の部下とともに機関銃を乱射する赤軍に向かって最後の突撃を敢行し、壮烈な戦死を遂げたといわれる。ただし、彼の死の状況をめぐってはほかにもいくつかの異説がある。 半月ほどのち、彼の死は児童文学作家としても有名なイギリスのジャーナリスト、アーサー・ランサムによって「エンヴェル・パシャの最後の冒険」と題してヨーロッパに伝えられた。
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