「アメリカインディアン女性奉仕連盟」の設立
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「キャサリン・トラウ」の記事における「「アメリカインディアン女性奉仕連盟」の設立」の解説
1950年代初頭から、合衆国政府はインディアン諸部族の解消方針を強め、約10年間で100を超えるインディアン部族が連邦認定を取り消され、「絶滅」したことにされていった。なかでも1956年に施行された「インディアン移住法」は、保留地から都市部へインディアンを放逐させるものであり、この法によって多くのインディアン部族はその共同体を破壊された。内務省BIA(インディアン管理局)とインディアン健康サービス局は、保留地のインディアンたちに都市部での仕事を斡旋し、インディアンたちに「もう保留地には戻らない」と一筆書かせた。 故郷を失い、土地部に移り住んだ「アーバン・インディアン」(都市のインディアン)たちが増加するにつれ、多くの保留地が限界集落化した。このようなインディアン部族に対し、合衆国は連邦条約で保証した権利一切を剥奪して、領土である保留地の保留を解消し、これを没収した。1950年の時点で、シアトル市に流入した「アーバン・インディアン」の人口は700人に達し、多くのインディアンたちが極貧のなか、路頭に迷っていた。 1958年、キャサリンやパール・ウォーレン(マカー族)ら、7人のインディアン女性が、「子供に影響するもの、健康、住宅など、女性にとって重要な活動に対処すること」を方針に挙げ、シアトル市にインディアン互助団体「アメリカインディアン女性奉仕連盟」(American Indian Women's Service League=AIWSL)を設立した。それまで、シアトルにはインディアンの互助団体は無く、キリスト教会だとか市民団体など、白人の団体のボランティアの要請で、中流家庭のインディアンの女性が支援を行っていた。「ALWSL」は、インディアンの互助団体としてはシアトルで初の組織だった。 この団体の中心人物のパールは、「インディアン達が会合するための親しみやすい場所であること」、「都市生活をよく知らないインディアンへの援助」、「教育的、医学的な問題に対する、適切な助言」、「最重要事としての、インディアン文化の維持」の4つの目標を掲げた「ホスピタリティー・センター」の設立を構想した。キャサリンらは全米の同種団体に手紙を送り、月刊紙「インディアン・センター・ニュース」を発行開始。1960年までに、下町の小さなビルに「シアトル・インディアン・センター」を開くだけの資金を調達した。
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