ČSTブラチスラヴァテレビ局
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「スロバキアテレビ」の記事における「ČSTブラチスラヴァテレビ局」の解説
スロバキアでは公共ラジオ放送のチェコスロバキア放送ブラチスラヴァ放送局が1956年11月にブラチスラヴァでのテレビ放送を開始した。当時のテレビ普及台数はおよそ500台で、ドナウ川河畔の文化余暇館(Park kultúry a oddychu)から週2回放送が行われ、翌年から月曜日を除く毎日放送が行われた。1957年に国営チェコスロバキアテレビ(ČST)が設立されチェコスロバキア放送のテレビ放送事業を分離承継。1962年にはコシツェで、1966年にはバンスカー・ビストリツァで放送を開始した。 1968年のプラハの春では西欧の文化・芸術を積極的に紹介して改革運動を促したが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻により放送は中断され検閲が再開。親欧米派とみなされた局職員が追放された。1970年から歴史、文化、教育番組に特化した教育チャンネルČST2が暫定放送を開始した(1973年本放送開始)。1975年には当時のチェコスロバキアでもっとも高い28階建て高さ108メートルのスロバキアテレビビル(Budova Slovenskej Televízie)と、ブラチスラヴァ・カムジーク山のカムジークテレビ塔(Televízna veža na Kamzíku)が完成した。 1989年のビロード革命では、当初、民主化を要求するブラチスラヴァ市内の大規模市民デモを一切伝えなかったが、民主化デモが始まって6日目の11月22日にブラチスラヴァテレビ局職員がストライキを構えて検閲を拒否し、ČSTプラハテレビ局(現チェコテレビ)に先んじて無検閲で市内のデモの様子を伝えた。さらに民主化勢力が出席したチェコスロバキア放送史上初の自由討論番組を放送し、共産党政権の退陣を後押しした。1990年にはČST1がチェコスロバキア全土を対象にした連邦チャンネル(F1)に、ČST2がスロバキア共和国域内のスロバキア語チャンネル(S1)に改編された。
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