渡欧
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ヨーロッパではシマノからの出向扱いでイタリアの名門プロチーム「チーム・ポルティ(Team Polti)」に所属し、今中もアシスト選手として活動する。渡欧初年度は日欧のレベルの差に苦しみながらもエースのジャンニ・ブーニョやジャモリディネ・アブドジャパロフのアシストとしてアタック潰しやボトル運びに従事し、徐々にチームメイトの信頼を得る。主な成績はグラン・プレミオ・チッタ・ディ・リオ(Gran Premio Citta Di Rio)15位など。この年の世界選手権には、今中をはじめ市川雅敏、山田隆博、藤野智一らとともに出場するも全員リタイヤとなった。 渡欧2年目の1995年にはジロ・デ・イタリアに出場した。スタンガ監督からは「二三日でやめるな」と釘を刺されての出場であったが、結果的に今中は全体の3分の2に当たる14ステージまで参加するも、第12ステージで落車に巻き込まれて顎を数針縫うケガを負い第14ステージ途中でリタイアとなった)。なお、この時、イタリアのメディアからは「シマノの技術者がジロ・デ・イタリアを走っている」と受け止められていたとのこと。ジロをリタイアした後はしばらく休養を取り、8月下旬よりリーズ・インターナショナル、クラシカ・サンセバスティアン、ブエルタ・チクリスタ・ガレガなどに参加。ポルティとの契約は2年であったが、1年の延長となった。 3年目の1996年は春先から好調で、2年目までの今中のイメージを覆すような果敢なアタックや引きを見せ、周囲の選手たちを驚かせる。なお、3月24日にはレースのスタート直前に長男が誕生したとの一報が伝えられ、審判車や選手たちに祝福されながらのレースとなった。
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渡欧
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1876年(明治9年)5月10日イギリス公使館附書記一頭見習となり、6月14日南条文雄、笠原研寿の留学とともに横浜港を出港した。森有礼公使の下で関税自主権の回復を目指したが、1878年(明治11年)ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでジェボンズに経済学を学び、保護貿易に疑問を抱くようになった。 1879年(明治12年)12月三等書記生、1881年(明治14年)書記生。1882年(明治15年)4月4日帰国を願い出、8月24日公信局御用掛、25日朝鮮国務掛となった。 1883年(明治16年)4月19日外務書記生として再びロンドン領事館に配属された。1885年(明治18年)12月在リヨン領事としてフランスに転任し、1887年(明治20年)3月9日バルセロナ万国博覧会理事官となったが、1889年(明治22年)暇を得て6月28日帰国した。 1889年(明治22年)『外国貿易拡張論』を著し自由貿易を主張、これが『東京経済雑誌』において評価され、以降度々同誌に寄稿するようになった。 1891年(明治24年)3月27日ロンドン領事、6月26日総領事代理に任じられた。1892年(明治25年)の倫敦日本協会創立に尽力した。
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渡欧(幕臣時代)
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文久元年(1861年)、福沢諭吉は中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。 文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「オーディン号(英語版)」に乗って品川を出港した。 12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給した。文久二年(1862年)1月1日、長崎を出港し、1月6日、香港に寄港した。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義・帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けた。 1月12日、香港を出港し、シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、2月22日にスエズに到着した。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超えて、北のカイロに向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海を渡り、マルタ島経由でフランスのマルセイユに3月5日に到着した。そこから、リヨンに行って、3月9日、パリに到着した。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学した。(滞在期間は20日ほど) 文久2年(1862年)4月2日、幕府使節団はドーバー海峡海峡を越えてイギリスのロンドンに入った。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学する。万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。ロンドンの次はオランダのユトレヒトを訪問する。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。その後、幕府使節団は、プロイセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国境問題を討議するためにペテルブルクを訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学した。 その後、幕府使節団はまたフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルのリスボンに文久2年(1862年)8月23日、到着した。 以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福沢諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。 また、福沢諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、福沢諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった。(この時、福沢はその学会に自分の顔写真をとられている。) 文久2年(1862年)9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、文久2年(1862年)12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国した。 ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。 品川に到着した翌日の12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった。文久3年(1863年)3月になると、孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。福沢の周囲では、同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、福沢諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年頃〜明治6年頃までが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと福沢はのちに回想している。) 文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより、福沢諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった仙台藩の大童信太夫を通じて、同年秋ごろに塾で諭吉に師事していた横尾東作を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。 元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった。慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。また明治2年(1869年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記を、福沢諭吉は玄白の曽孫の杉田廉卿、他の有志たちと一緒になってまとめて、『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。
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渡欧
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文久2年(1862年)に福澤諭吉は竹内保徳遣欧使節団の通訳としてヨーロッパを歴訪した。歴訪の記録は『西航手帳』というメモに記されている。帰国の後、福澤は『西洋事情』を出版し、欧米の文明を紹介して、ベストセラーとなる。この『西洋事情』の初編の巻一に、「欧羅巴政学家の説に、凡(およ)そ文明の政治と称するものには六ケ条の要訣ありと云えり。」として、文明政治の六箇条が示されているが、この欧羅巴(ヨーロッパ)政学家とは誰を示すのかは不明であった。
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渡欧
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「ウィリアム・スチュワート・ハルステッド」の記事における「渡欧」の解説
1878年4月、ニューヨーク病院(英語版)で主治医として働き始めた。このとき、親友となるウィリアム・H・ウェルチ(英語版)と出会う。このとき、ウェルチはベルビュー医科大学で研究室をすでに持っていたとされている。 主治医となったハルステッドだったが、アメリカでは医学部卒業生の医学キャリアを訓練する制度がなかったため、ハルステッドは10月に渡欧し、ドイツとオーストリアで著名な多くの外科医や医学者のもとで学んた。その中には、ハルステッドが導入する鼠径ヘルニアの消毒液を用いた手術などを考案したエドアルド・バッシーニ(英語版)や、また胃切除手術で知られるテオドール・ビルロートと弟子のヤン・ミクリッツ・ラデツキー(英語版)、甲状腺切除手術のためのコッヘル鉗子を開発した エミール・テオドール・コッヘルもいた。折しも、ヨーロッパでは癌の研究が広まり始めたばかりで、この時のハルステッドの経験が後にアメリカで考案する医術に影響を与えた。
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渡欧
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明治元年(1868年)徳川家達の奥詰として使え(いわゆる将軍御学友)、翌年家達に従い静岡へ移住する。ちなみに、静岡移住士族の美男美女番付「花競見立相撲」では、前頭に清雄の名が載っている。大久保一翁、勝海舟らの斡旋により、明治4年(1871年)3月、徳川宗家給費生として清雄ほか5人で渡米する。船中、下等船室での待遇の悪さに耐えかね、大半の日本人客が上等に移った後でも、「見苦しき事甚だし」とし、船底で寝起きし、船内の様子をスケッチに残している。本来は政治や法律を学ぶための留学だったが、渡米前後に周囲から画才を認められ、大久保一翁は旅立つ清雄に「迷わなくて何でも一つ是非やってこんぢゃならん。お前は絵が好きだから絵だけやって来ていいから、邪道に迷わないようにしろ」と後押しされた。後に清雄の妹房子と結婚する外山正一の勧めもあって画家になることを決意する。日本公使館の書記官で画家のチャールズ・ランマンに学び、この時、ランマン宅でホームステイをしていた津田梅子の看病をしたが、麻疹をうつされて困ったという。 明治6年(1873年)パリへ転じ、アレクサンドル・カバネルの弟子・オラース・ド・カリアス(Horace de Callias)等に学び、アカデミズムの歴史画制作の有様とその思想を吸収して行ったと思われる。この年、明治政府は海外留学生の一斉帰国を命じたが、川村は私費留学生として残る。また翌年頃に、ヴィル=ダヴレーに住むカミーユ・コローを訪問したとも言われ、後の清雄の風景画にその影響を見ることが出来る。明治9年(1876年)2月イタリアに移り、ヴェネツィア美術学校に入学する。同年、パリでは清雄と一緒に生活し、一足先に帰国していた宇都宮三郎が、紙幣頭の得能良介に推薦してくれたおかげで、清雄は紙幣寮官費留学生として採用され、月給10円と年間授業料として1000円の給料を受けられることになった。当地では留学生としての責務を果たすべく基本図像画・建築図・装飾図案のコースを履修し、辞令に従い日本に定期的に作品を送っている。その傍らヴェネツィア派の巨匠たちに学び、特にティエポロを崇敬したという。異国の学校生活にも溶け込み、後にヴェネツィアの現代生活と風景に着目した絵を描いて名を馳せたエットレ・ティート(Ettore Tito)や、社会批判に満ちた作品で名声を得たオレステ・ダ・モリン(Oreste da Molin)と親交を結ぶ。清雄は後年までヴェネツィアでの生活を懐かしみ、日本に帰った後もその情景をしばしば描いた。 明治14年(1881年)12月14日、再三の留学延期願いが却下され帰国する。その去り際、師匠格として交流があったスペインの画家・マルティン・リコ・オルテガ(es:Martín Rico)から、「日本趣味を失わないように」と餞の書簡を渡されている。リーコはジャポニズムを好み、清雄に「汝は日本人である。日本人は実に意匠に富んで、筆に器用なものを持っている。それを捨てて無闇に西洋を取りたがるのは間違いだ。日本人は日本のを建ててゆかなくちゃいけない」と語った。こうしたリーコの言葉を清雄は後々まで自問し、「日本人らしい油画とは何か」という壮大なテーマに終生取り組むことになる。
※この「渡欧」の解説は、「川村清雄」の解説の一部です。
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