豊饒の海
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文壇の反響
『春の雪』『奔馬』の刊行後の反響については、否定的なものも多少混ざっているが、概ねは好意的なものが多い[5]。批判的なものとしては、森川達也が、作品が「荒唐無稽」だとし[39]、北村耕は、作品に込められている「天皇崇拝思想」を批判している[40]。
肯定的なものは、桶谷秀昭[41]、福田宏年[42]、奥野健男[43]、佐伯彰一[44]、阿川弘之[45]、村上一郎[46]、高橋英夫が[47]、現代に対する挑戦、三島美学の集大成という受け止め方で[5]、野口武彦は、『豊饒の海』を「三島由紀夫氏の『失われた時を求めて』である」と評し[48]、三島は日本文学の遺産である「物語」を選択したと解説している[49]。
中でも澁澤龍彦は、「戦後文学最高の達成」とした上で、そこでは「行動と認識をいかに一致させるかの問題」が作品構成の動機になって、本多は「行動という危険な領域に惹かれつつ、その一歩手前で踏みとどまる小説家の営為」を象徴的に体現している人物と説明し[50]、三島が中村光夫との対談で、〈自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向っていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆すのはいつも母的なものなんです〉[15] と述べていたことに触れながら、無意識の特性を持つ女(太陽)が男の「悪の芽を育て、悪を唆す」という存在でもある面を鑑みて、勲が死ぬ時に体内に太陽が入り込み、次回に女に転生するのは偶然ではなく、物語の論理的必然であると解説している[50]。
川端康成は、『春の雪』『奔馬』を読み、「奇蹟に打たれたやうに」感動、驚喜して[51]、『源氏物語』以来の日本小説の名作と思ったとし[52]、以下のように高評価している[51]。
『暁の寺』の刊行後には、文壇全般的な受け取られ方は芳しくはないが、佐伯彰一や池田弘太郎は、認識者の世界攻略のドラマという主題を看取し[53][54]、田中美代子や磯田光一は、本多とジン・ジャンの関係性を「密通」「エロスの弁証法」と見なすことにより、認識の孕む生の豊饒さへの回路について言及している[55][56]。
三島の自死による『天人五衰』刊行後には、磯田光一や田中美代子が、『豊饒の海』の前半では心情の純化や生の極限が描かれ、後半は認識者・本多が主人公となり、その結末は三島の死と表裏の関係があるとし[57][58]、粟津則雄は、死の主題への偏執や、個人を越えた全体への志向を指摘している[59]。
澁澤龍彦や奥野健男は、『天人五衰』で、三島を襲ったニヒリズムの露呈を指摘している[60][61]。澁澤龍彦は、末尾の夏の日ざかりを終戦の日の風景だと指摘し、以下のように評している[60]。
注釈
- ^ 今日では「豊かの海」と訳されることが多いが、三島がこの題を付した当時は「豊饒の海」と訳されていた[1]。
- ^ 『浜松中納言物語』は、美しい中納言が許されぬ悲恋に嘆いた末、亡父が唐の第三王子に生まれ変わっているとの夢を見て船出してゆくという〈夢と転生〉の王朝文学である[10]。その主題は、〈もし夢が現実に先行するものならば、われわれが現実と呼ぶもののはうが不確定であり、恒久不変の現実といふものが存在しないならば、転生のはうが自然である〉という考えが貫かれている[11]。
- ^ この最後の〈バルタザールの死〉というのは、正確には「バルダサール」で、プルーストの短編『バルダサール・シルヴァンドの死』の主人公のことである。プルーストは、インドに向かう船を窓越しに眺めながら、村の鐘の音に過去の記憶を思い出し幸福な臨終を迎えるバルダサールを描いている[17]。
- ^ 手紙の続きは、以下のように綴られている。〈それはさうと、昨今の政治状勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々と進行し、失つたら二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。〉[28]
- ^ 小島千加子によれば、三島は今西康のことを、「あれは誰が見たって澁澤龍彦だってことが分っちゃうだろ。だから、わざと背を高く、たかーくしてあるんだよ」と言ったとされる[37]。
- ^ 三島は、取材や想が熟さないところは後回しにして、書けるところから書く方法を取り、8月24日頃に最終回部分(第26-30章)を概ね書き上げ、原稿のコピーを新潮社の出版部長・新田敞に渡している[2][29]。また8月11日に下田東急ホテルに滞在中の三島を訪ねてきたドナルド・キーンに終結部の原稿を示したが、キーンは遠慮して読まなかったという[38]。
- ^ 三島があえて〈十九年前〉と登場人物に言わせ、作品発表から遡った昭和天皇の人間宣言の年を暗示させているともとれる箇所がある[66]。
- ^ 三島は『文化防衛論』で、「日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」と論じている[65]。
- ^ 三島は『春の雪』執筆中の1966年(昭和41年)10月時点、「僕は人間がどうやって神になるかという小説を書こうと思っています。藤原定家のことです」と林房雄との対談で語っているため[14]。
- ^ 時代設定は1974年(昭和49年)時点であるので、この60代の老人と、生きていればその時点で49歳の三島とは年齢的には符合はしていない。
- ^ その際、夫人との会話で日本のことが話題となり、日本のエネルギーは西洋のテクノロジーと東洋の伝統とが衝突し合って生れているのではないか、と夫妻で考えた。ヨーロッパはロマンチックの世界で過去の歴史が色濃く残り時代遅れの観があり、一方、アメリカは魂不在で体温の感じられないテクノロジーの国で、インドは優れた精神文化を重んじつつも、飢餓に苦しんでいる、とコッポラは考察し、それらの国々と比して、日本が唯一、「物質文化と精神文化」「陰と陽」「右脳と左脳」「たくましさとしなやかさ(男性度と女性度)」を兼ね備えて共存し合っている国だと語っている[75][76]。そして次回作を日本で撮ることを計画した[75][76]。
出典
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