国鉄キハ07形気動車 国鉄キハ07形気動車の概要

国鉄キハ07形気動車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/01 06:37 UTC 版)

外観
車内
運転台
操作盤(同和鉱業片上鉄道譲渡車の動態保存運転時のもの。1950年代以降の新型液体式気動車に準ずるケーシング付きの運転台パネルに改装され、液体式気動車用の主幹制御器を装備する)
乗車風景(同上)

概要

キハ42500形(2代目)の前身であるキハ42000形は昭和時代初期に鉄道省が開発したキハ41000形ガソリン動車を基本とし、大都市近郊路線に投入するために車体寸法を拡大して機関出力を強化したものである[2]

キハ42000形には、1935年(昭和10年)から62両が量産されたガソリン機関搭載の基本形式であるキハ42000形、および、1937年(昭和12年)に3両が試作されたディーゼル機関搭載の派生形式であるキハ42500形(初代)の2形式が存在した。キハ42500形(2代目) → キハ07形はこれらのうち、戦後まで残存していた車両について機関をディーゼル機関に換装して再生改造されたグループと、これらの設計に準じて戦後追加製造されたグループで構成される。

構造

キハ42000形気動車は、全長19m、自重約27t、定員125名、燃料積載量400リットルと、量産形気動車としては当時日本最大級の気動車で、機関も日本製気動車用床下吊り下げ形ガソリン機関としては最大のGMH17形を搭載していた[2]

基本設計は先行するキハ41000形に多くを負っているが、そのキハ41000形自体が江若鉄道C4形[注釈 2]などの日本車輌製造製私鉄向け大型気動車の開発成果を基にしており、型鋼を多用した軽量車体構造や菱枠構造を採用した台車などにその影響は顕著であった。

車体

車体前頭部は当時の流線型ブームの影響を取り入れた半円形スタイルが採用された[2]。工程短縮のため半円柱の2次曲面とされ、窓ガラスには通常の板ガラスを使用したため、6枚窓構成となっている。1936年に東京大学航空研究所でキハ42000形の模型を用いて行われた風洞実験では、平妻の車体より空気抵抗が軽減されていることが立証されている[2]。塗装はウィンドウ・シルから上が灰黄色(黄かっ色2号)、下が藍青色(青3号)であった。

客用扉は片側3箇所に設置された[2]。車内の座席は背の低いクロスシートが配置されたが、扉付近は混雑緩和のためロングシートとされた[2]。窓配置はD1231D1321Dという不規則なものであるが、これは戸袋部分の制約や構体の強度確保等に起因しており、車内に等間隔で並べられたクロスシートは窓とは合っていなかった[2]

主要機器

本形式はキハ41000形同様に動力伝達方式が機械式と呼ばれる、自動車のマニュアルトランスミッションと同様の手動変速方式で、総括制御ができない構造であったため、大都市近郊の路線で1両で頻繁運行するのが原則であった。ラッシュ時などに連結運転を行う必要がある場合は、各車両に運転士が乗車し、先頭車の運転士がブザーにより後方の車両へ合図を送り、後方の車両の運転士はその合図に従って運転操作を行う協調運転を行っていた。この協調運転は大阪市西成線(現在の桜島線)などの路線で実施され[3]、戦後も千葉県など一部で行われた[注釈 4]

機関

機関はキハ41000形搭載の鉄道省と日本国内のエンジンメーカー各社が共同で開発したGMF13形6気筒エンジンをベースに、気筒数を増やして直列8気筒とした「GMH17」(水冷4ストローク縦型、サイドバルブ、排気量16.98リットル)ガソリン機関で、連続定格出力150PS/1500rpm、最大出力200PS/2000rpmであった。垂直シリンダエンジンの床下搭載という制約からくるストロークの限界と、GMF13がボア拡大できる余地が(ブロックの摩耗時ボーリング再生を配慮した気筒間肉厚マージンの大きさを考慮しても)十分なものではなかったことから、GMF13のボア・ストローク拡大ではなく、130mm×160mmのボア・ストローク比はそのままに気筒数を追加する、比較的技術のハードルが低い手段を採ったものである。ヘッド部分はGMF13が3気筒ずつ分割の2ブロック構成であったのに対し、GMH17では4気筒ずつ分割の2ブロック構成とした。

点火時期調整については、GMF13では遠心力制御による機械式ガバナを用いたのに対し、GMH17は出力増大を考慮して吸気負圧制御をも併用した機械・真空式ガバナに進歩した。キャブレターは排気量増大に見合った大容量キャブレターが作れず、日本気化器(現・ニッキ)製のGMF13用ストロンバーグ型アップドラフト・キャブレター「トキハUT-5」の同型品を2基装備したツイン・キャブレター方式で対処している。なお、国産機関の採用は、ウォーケシャ6RBなどの輸入機関を使用する例が多かった江若をはじめとした私鉄向け大型気動車群や外地向け気動車群とは一線を画していた。

動力伝達装置

円錐式クラッチ板、4段の変速機(D211)はキハ41000形と同一であったが、台車に装架される逆転機については、歯車比を3.489から2.976に変更して高速運転に対応したD208を別途設計している。

台車

台車はキハ41000形の軸バネ式の菱枠台車(アーチバー台車)TR26をベースに、ホイールベースを1800mmから2000mmに拡大したTR29を採用した[2]。約7tの重量増加に対応して下揺枕を設けて枕バネ構成を変更、車軸を10t短軸[注釈 5]とした。TR26・29系台車はその軸距の短さとバネ構成から、高速運転時にピッチング現象が発生しやすいという問題があったが、当時の国鉄車両用台車としては珍しく走行抵抗軽減を目的としてスウェーデンSKF社製品を元に日本精工(NSK)などで国産化した複列テーパー(円錐)ローラーベアリングを軸受に採用し、軽量化に特に留意した構造と共に、日本車輌の私鉄向け気動車の設計を元にした先進的なコンセプトの下で設計された台車であった[注釈 6]

ブレーキ

ブレーキシステムはキハ41000形と同じ直通・自動両用型のGPSブレーキが採用された[2]。キハ41000形と比してより高性能な、幹線での運用をも可能とする走行性能が与えられていたが、前述の機械式変速機とあわせて、長大編成での運用は考慮されていなかった。

形式別解説

キハ42000形は、1935年から1937年にかけて62両(42000 - 42061)が製造された。このほか、ディーゼル機関を搭載した試作車キハ42500形が1937年に3両(42500 - 42502)製造されている。製造は、民間の川崎車輛日本車輌製造新潟鐵工所のほか、鉄道省の大宮工場でも行なわれた。

戦後にもディーゼル機関を搭載し、ドアのプレスドア化など細部の仕様を変更した同形車が製造されている。こちらは、1952年に20両が製造された。

キハ42000形

キハ42000 - 42003の4両は1934年度に川崎車輛で製造され、試作車としてキハ42000と42001が宮原機関庫へ、42002と42003が名古屋機関庫へ配置された[2]。塗装は名古屋の42002・42003が後の気動車標準色となる濃コバルト色と灰白色のツートン、宮原の42000と42001は濃褐色と黄褐色のツートンとされた[4]。この最初の4両は各種試験に投じられたのち、宮原の2両は西成線(現・桜島線大阪環状線の一部)で、名古屋の2両が武豊線中央本線名古屋口ローカル用に使用された。

1935年7月15日と16日には東京駅 - 静岡駅間でキハ42000・42003を使用した高速試運転が実施され、15日の運転では最高速度108km/hを記録した[5]。東京駅では新車のお披露目とともに見学者向けに濃コバルト色と濃褐色のどちらが良いかを問うアンケートも実施された[5]

鉄道省はキハ42000形の量産を決定し、1935年から1937年にかけて62両が製造された[6]。塗装は高速試運転時のアンケートの結果や耐久性も考慮して濃コバルト色と灰白色のツートンが採用された[6]。西成線の濃褐色と黄褐色は内燃動車では採用されなかったが、後に52系電車(流電)で使用され、関西急電色として戦後の80系電車にも採用された[7]

以後は日本各地で多くの場合、1933年以降すでに先行して41000形が導入されていた路線にこれを置き換え、あるいは併用する形で投入され、捻出した41000形で新たな気動車運行路線を開拓する措置が(42000形増備が停止する1937年の戦時体制期までの短期間であったが)進められた。

製造所及び製造年、両数、番号は以下のとおりである。

  • 1934年度
    • 川崎車輛(4両) - 42000 - 42003
  • 1935年度
    • 日本車両(17両) - 42004 - 42010, 42013 - 42022
    • 川崎車輛(13両) - 42011, 42012, 42023 - 42033
  • 1936年度
    • 大宮工場(6両) - 42034 - 42039
    • 日本車両(8両) - 42040 - 42043, 42047 - 42050
    • 川崎車輛(4両) - 42044, 42051 - 42053
    • 新潟鐵工所(2両) - 42045, 42046
  • 1937年度
    • 日本車両(3両) - 42054 - 42056
    • 川崎車輛(3両) - 42057 - 42059
    • 新潟鐵工所(2両) - 42060, 42061

ディーゼル機関試用車(キハ42500形)

1936年に、GMH17をベースに日本国内の鉄道車両用機関の有力メーカー3社の手によってディーゼル化したエンジンが試作され、これらを搭載し比較試験を行うためにキハ42000形と機関系統の機器以外は同一の車両が3両、キハ42500形という別形式で製造された。

この時試作されたのは新潟鐵工所LH8、池貝鉄工所8HSD13、三菱重工業8150の3社3種であった[6]。いずれもGMH17を基本とする縦型8気筒150馬力級ディーゼル機関であった。前2社が渦流式の副燃焼室を持つ排気量16990ccの渦流室式、三菱が直接燃焼室に燃料を噴射する排気量19467ccの直噴式、と各社が自社の得意とする技術を生かした仕様での独自設計で、各部に様々な差違があり、特に前2社製と三菱製では口径・ストローク共に異なるシリンダヘッド周辺を始め、相互間の部品の互換性はなかった。

これら3種による試験の結果、比較的悪質な燃料での使用に耐え、シリンダ内圧が低いため工作技術面でのハードルも低く、また海外特許や輸入部品への依存度が低いため国内生産が容易な渦流室式の採用が決定され、鉄道省と試験に参加した3社と川崎車輌、神戸製鋼所の共同設計で、標準型8気筒150馬力級ディーゼル機関の設計と試作が行われたが、実質的には新潟鐵工所LH8Xの直系というべき設計となった。なお、戦時体制への移行で機関の開発が中断され、実車試験は実施されなかったが、この機関が戦後のDMH17系ディーゼルエンジンの原型機となった。

製造所及び製造年、両数、番号は以下のとおりである。

  • 1936年度
    • 川崎車輛(3両) - キハ42500形 - 42500 - 42502

天然ガス動車への改造車(キハ42200形)

戦後まで残存していたキハ42000形およびキハ42500形の一部は、戦後の輸送量の急増と、燃料統制によるガソリン配給量半減への対応のため、1950年天然ガス動車(キハ42200形)に改造された[8]。これらが使用された千葉地区では、木原線で戦時中からの41000形ガスカー運行事例や、九十九里鉄道でのガスカー採用事例などもあって、1949年以降、房総東線の乗客による主要線区でのガスカー運行運動が盛んになっており、ガソリン供給事情の逼迫も伴って、ガスカー導入拡大を真剣に検討せざるを得ない事態となっていた。

まず1950年4月に新小岩工場で改造された9両が、天然ガスを産出する千葉県内の久留里線房総東線房総西線、木原線、東金線で使用開始され、同様に天然ガスを産出した新潟近郊の越後線弥彦線信越本線(新津 - 新潟、直江津 - 新井)、磐越西線(馬下 - 新津)にも投入されることになり、長野工場で11両が改造された。同年10月には、千葉地区用に2両が増備され、計22両が天然ガス動車となった。

GMF17エンジンにはガソリン用気化器に代わって、ガスエンジン仕様とするためのガス調整器が装備された。床下には40Lガスボンベ24個が設置され、その搭載スペースを捻出するため、ラジエータが運転台下の台車前方・車端部側に移設されていることで、外見からもガスカーと判別できた。

列車混雑に悩まされていた沿線利用者からは「ガスカー」によるフリークエントサービスは歓迎されたが、燃料の天然ガス価格が極端に高価であること(1951年時点で1kmあたりの走行コストを比較すると、ディーゼル動車(軽油燃料)1円65銭、ガソリン動車6円91銭であるのに比し、天然ガス動車は11円70銭であった)、ガス充填作業に時間や手間が掛かること[注釈 7]、出力の小ささ(正規のガソリン燃料使用時の約8割強に低下)や、機関の老朽化、爆発の危険性など、天然ガス動車運行に伴う障害は多く、運行する支社や現場は苦慮せざるを得なかった。それでもしばらく天然ガス動車の運行が継続されたのは、天然ガス自体は地元で産出するため安定供給が可能であり、沿線からの気動車運行ニーズも非常に高かったことによる。

燃料統制が1952年に解除され、安価な軽油の入手が容易になったことなどから、同年中には機関をディーゼル機関に載せ換え、キハ42500形(2代目)に再改造されて天然ガス動車は消滅した。しかし、もと天然ガス動車の42500形にはディーゼル化後もラジエータ位置が運転台下のまま存置されたものもあり、出自を判別できた。

改造前後の新旧番号対照は、次のとおりである。

  • 42011 > 42200
  • 42012 > 42201
  • 42023 > 42202
  • 42026 > 42203
  • 42031 > 42204
  • 42032 > 42205
  • 42034 > 42206
  • 42036 > 42207
  • 42001 > 42208
  • 42002 > 42209
  • 42005 > 42210
  • 42009 > 42211
  • 42016 > 42212
  • 42027 > 42213
  • 42033 > 42214
  • 42048 > 42215
  • 42049 > 42216
  • 42050 > 42217
  • 42051 > 42218
  • 42053 > 42219
  • 42500 > 42220
  • 42501 > 42221

電気式への改造計画(キハ42400形)

天然ガス動車への改造と同時期の1950年、キハ41000形に対して、陸軍統制型機関にルーツを持つバス・トラック用ディーゼルエンジンである、日野ヂーゼル製のDA55[注釈 8]に載せ換える改造が実施され、使い勝手が良く故障が少なかった。しかし、この機関は車体が大きく自重も重いキハ42000形には不適当で、駆動用機関としてそのまま使用することはできなかった。

そこで、DA55を発電機関として搭載し、電車用電動機をGMH17や変速機が装架されていたスペースに装架、ユニバーサルジョイントによる気動車の駆動システムで台車に動力伝達する、原始的な直角カルダン駆動方式(一種の車体装架カルダン駆動方式)を用いた電気式気動車への改造が計画され、キハ42400形として7両が改造されることが予定されたが、改造費や出力の小ささが問題となり、結局実現には至らなかった[9]

DMH17への換装車(キハ42500形)

戦時中にほぼ完成しながら放置され、戦後試作機が「発見」されて再度開発が進められていた、GMH17後継の標準型ディーゼル機関がDMH17として制式化され、量産品が1951年に完成した。その評価試験結果が良好であったため、この機関を用いたキハ42000形、キハ42200形およびキハ42500形(初代)のディーゼル動車化を同年2月から開始した。

この新型機関を搭載する車両は新たにキハ42500形(2代)とされ、43両が大宮工場、新小岩工場、長野工場、名古屋工場、多度津工場で機関換装・改番された[10]。番号は廃車および供出車の欠番を整理する目的で42500~42542に改番されたが、順序は不規則で旧番号順ではない(ただし、初代42500形3両は、結果的に改番を免れた42502以外の42500・42501の2両も、天然ガス動車からの再ディーゼル化に際して、製造当初と同じ車番に復旧する結果となっている)。改造前後の番号は下記のとおり。

改造前>改造後
  • 42220 > 42500
  • 42221 > 42501
  • 42502 > 42502
  • 42013 > 42503
  • 42014 > 42504
  • 42029 > 42505
  • 42035 > 42506
  • 42046 > 42507
  • 42047 > 42508
  • 42052 > 42509
  • 42208 > 42510
  • 42209 > 42511
  • 42003 > 42512
  • 42210 > 42513
  • 42006 > 42514
  • 42007 > 42515
  • 42008 > 42516
  • 42211 > 42517
  • 42200 > 42518
  • 42201 > 42519
  • 42212 > 42520
  • 42018 > 42521
  • 42019 > 42522
  • 42202 > 42523
  • 42203 > 42524
  • 42213 > 42525
  • 42028 > 42526
  • 42204 > 42527
  • 42205 > 42528
  • 42214 > 42529
  • 42206 > 42530
  • 42207 > 42531
  • 42038 > 42532
  • 42039 > 42533
  • 42040 > 42534
  • 42215 > 42535
  • 42216 > 42536
  • 42217 > 42537
  • 42218 > 42538
  • 42219 > 42539
  • 42055 > 42540
  • 42057 > 42541
  • 42058 > 42542

戦後増備車(キハ42500形42600番台)

キハ42500形(戦後増備車の42600番台車)。山陰本線馬堀駅付近、1954年頃

石油の統制が解除された1952年には、新たに20両がDMH17搭載で追加生産された。形式は同じキハ42500形だが、車番は区分の意味で42600 - 42619となった[10]。車体が溶接組立でリベットなしとなり、前照灯は埋込み式、客扉は当初から鋼板プレスドアで、車内の座席配置の一部変更、全車輪の当初からのプレート車輪化などの変更がされた。

製造所及び製造年、両数、番号は次のとおりである。

  • 1952年度

注釈

  1. ^ 当形式が製造された時代の時点での気動車は普通列車用しか製造されていないが、同書によれば「一般形機械式ディーゼル動車」に分類されている。ただしこれは制式に分類したわけではない。
  2. ^ 車体長18m、定員120人、荷物室付き。新造段階では日本最大の機械式気動車。
  3. ^ 同書においては、1930年代末期の西成線における42000形運用を担当した宮原機関区の区長・磯田寅二の著作『ガソリン動車の故障手当』(大教社 1940年)における42000形の故障記録とその対策を引用し、重通勤路線の西成線で厳しい省燃費運転を伴っての連結運用を強いられた42000形が露呈した、数々の脆弱さ・欠陥面を厳しく指摘している。
  4. ^ 私鉄では江若鉄道で、夏期の水泳客輸送時等に常用されていた。
  5. ^ 当時の客車は12t長軸を採用。車輪はスポーク車輪を採用したが、動軸についてはスポークに亀裂が入るという問題が発生したことからプレート車輪へと変更された。
  6. ^ 当時の一般的な19 - 20m級電車が最低でもMT15(1時間定格出力100kW(約133PS))クラスの主電動機を4基装架していたのに対し、気動車はエンジン技術の不足から、当時最大級のキハ42000でもエンジンの連続定格出力はわずか150PSに過ぎなかった。低抵抗なコロ軸受軽量台車の採用はこのような機関の非力さを補うためで、国鉄・私鉄を問わず同時期の気動車の多くに共通した必然的措置であった。なお、坂上・原田(2005)p43、p55によれば、鉄道省ガソリンカーのローラーベアリングは、36900形のTR26時点ではアメリカ・ティムケン社の原型を日本精工・東洋ベアリングで国産化させた単列テーパー式であったが、TR29ではより整備しやすいSKF原型の複列テーパー式に変わったとする。
  7. ^ ボンベ充填には数時間を要し、ガス会社専用線への車両回送やガスボンベ輸送専用貨車の手配などの手間も無視できないものであった。
  8. ^ 縦型6気筒、連続定格出力75PS。
  9. ^ ただし、燃料タンクが推進軸の真横に配置されていたため、推進軸のジョイントが外れてタンクを破る事態を起こした事実があり、設計上の配慮は不足していたといえる。坂上・原田(2005)p138以降の事故検証および同書p159以降の総括では、この事故を含めて42000形は総合的に技術力や配慮不足の著しい欠陥車であったと指弾する。また42000形は当時の国鉄旅客車には珍しく鋼板張り屋根を用いていたため、鋼製車でも屋根は鉄骨木造・防水布張りが一般的だった他の車両のように、横転車の屋根部分を緊急破壊して旅客救出を図る策も採り難かった。
  10. ^ 同通達によれば、41314は事故5日前の9月9日に甲修繕を終えて大宮工場を出場したばかりであった。
  11. ^ 引用元の典拠は、大谷武雄「ディーゼル動車の空気調速機はどうして車軸折損に役立つか」(『機関車工学』Vol.10 No.2 1956年2月)による。
  12. ^ 一般に気動車は、運用中常時回転している走行用エンジンでベルト駆動される空気圧縮機や発電機で所要の圧縮空気や低圧電源を賄う。気動車がエンジン停止状態で牽引されている場合でも、自動ブレーキ用圧縮空気は牽引する動力車から供給できるが、車内照明や尾灯の電源は得られなくなり、車軸発電機装備などの対策が必要になる。

出典

  1. ^ 交友社 日本国有鉄道工作局・車両設計事務所『100年の国鉄車両(3)』 p.431[注釈 1]
  2. ^ a b c d e f g h i j 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.8
  3. ^ 坂上茂樹・原田鋼『ある鉄道事故の構図』(2005)p67-[注釈 3]
  4. ^ 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.9
  5. ^ a b 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.10
  6. ^ a b c d e f g 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.13
  7. ^ 岡田誠一『キハ41000とその一族』(RM Re-Library 4)、ネコ・パブリッシング、2022年(RM LIBRARY 1・2 復刻版、原著1999年)、p.19
  8. ^ 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.36
  9. ^ 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.38
  10. ^ a b 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.43
  11. ^ 快速ガソリンカー試運転『大阪毎日新聞』昭和10年6月19日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p423 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  12. ^ 坂上・原田(2005)p56-57
  13. ^ a b 岡田健太郎『撫順電鉄 撫順鉱業集団運輸部 -満鉄ジテとその一族-』2017年
  14. ^ 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.30
  15. ^ a b 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.35
  16. ^ 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.40
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.40
  18. ^ 坂上茂樹「1930~・60年代前半における本邦鉄道車軸とその折損事故について(2/2)」(大阪市立大学経済学部『経済学雑誌』117-2 2016年9月)p73にて引用された、1955年11月1日付の国鉄工作局長による全国国鉄工場長向け通達・工修第1355号「歯車式気動車の動輪の検査について」に基づく[注釈 10]
  19. ^ 坂上茂樹「戦前・戦時期の国産中・大型自動車用機関について(2)」(大阪市立大学『経済学雑誌』111(4) 2011年3月)p29・表3に準拠[注釈 11]
  20. ^ 本項は坂上・前掲論文p29-30による。
  21. ^ a b 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.56
  22. ^ a b c 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.79
  23. ^ 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.76
  24. ^ a b 滝田光雄「国鉄ガスタービン動車開発の経緯と今後の計画」『鉄道ピクトリアル』第266号、電気車研究会、1972年6月、4 - 7頁。 
  25. ^ a b 小林正治「わが国ガスタービン動車開発の経過」『鉄道ピクトリアル』第266号、電気車研究会、1972年6月、7 - 11頁。 
  26. ^ 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.82
  27. ^ a b c d e f g h i j k l 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.86
  28. ^ 羽幌炭砿にまつわる話シリーズ10「羽幌炭砿鉄道のディーゼルカー」 鈴木商店記念館、2023年3月21日閲覧
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.88
  30. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.91
  31. ^ a b c d e f g h i j k l 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.94
  32. ^ a b c d e f g h i j k l 岡田誠一『キハ07ものがたり』2022年(原著2002年)、p.95
  33. ^ 文化審議会答申 (国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定)について | 文化庁”. www.bunka.go.jp. 2021年10月26日閲覧。
  34. ^ 令和4年3月22日文部科学省告示第38号。
  35. ^ 山陰鉄道研究会編「備前の里に消えた列車たち」自費出版、1991年6月20日発行、p.96






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