佐賀藩
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明治以降の鍋島家当主
家臣団
佐賀藩の家臣団の序列は、「三家」・「親類」・「親類同格」・「家老」・「着座」・「独礼」・「侍」・「手明鑓」(※本藩と支藩の蓮池藩のみ)・「徒士(歩行)」・「足軽」となっている。これ以外にも、上級家臣と主従関係を有する陪臣や被官といった身分が存在し、小禄の侍や、手明槍以下は日常は農商業に従事して生活を営んでいた。佐賀城下の町人地の地図に、苗字を持った商人が散見されるのはこのためである。
上級家臣団
- 三家(蓮池鍋島家・小城鍋島家・鹿島鍋島家の三支藩)
- 親類(白石鍋島家・川久保鍋島家・村田鍋島家・村田家)
- 親類同格:龍造寺四家(諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家)
- 家老(横岳鍋島家(石井家)・神代鍋島家・深堀鍋島家・姉川鍋島家・太田鍋島家・倉町鍋島家)
- 着座(納富鍋島家・山代鍋島家・鍋島左太夫家・石井家・成富家・岡部家・伊万里鍋島家・坂部家・千葉家・岩村家・中野家・大木家・執行家・深江家など概ね18家前後)
三家(三支藩)
親類
- 白石鍋島家(佐賀藩内2万277石(物成8111石)・藩主一門)維新後男爵
- 川久保(神代)鍋島家(肥前川久保領1万石(物成4000石)・藩主一門)
- 村田鍋島家(肥前藩内6000石(物成2400石)・藩主一門)維新後男爵
- 鍋島茂英(鍋島(川久保)直長の子、鍋島光茂養子)-茂建-茂憲-洪図=茂徳(鍋島(川久保)直恭の子)-茂啓-茂生
- 村田家(肥前久保田領1万770石(物成4308石)・龍造寺一門)
親類同格
鍋島氏の旧主筋である、龍造寺一門。当初は「親類」としていたが、1699年に村田家以外は新たに「親類同格」となり、「親類」とは差を付けた。
- 諫早家(肥前諌早領2万6201石(物成10480石)・龍造寺一門)維新後男爵
龍造寺家晴(龍造寺鑑兼の子)-諫早直孝-茂敬-茂真-茂門=茂元(茂門の弟)=茂晴(鍋島(白石)直堯の子、妻は茂元の娘)-茂行-行孝 =茂成(行孝の弟)=茂図(茂成の弟)-(敬輝)(病にて家督を継がず)-茂洪-茂喬=茂孫(茂喬の弟)=武春(茂喬の子)=一学(茂孫の弟)
- 多久家(肥前多久領2万1735石(物成8694石)・龍造寺一門)維新後男爵
龍造寺長信(龍造寺隆信の弟)-多久安順=(茂富)(龍造寺家均の子)-茂辰-茂矩=茂文(鍋島光茂の四男)=茂村(小城藩主鍋島元武の子、妻は茂文の娘) =茂明(鍋島(須古)茂清の子、須古鍋島家相続後多久家を相続、妻は茂文の娘)-茂堯-茂孝=茂鄰(茂孝の弟)-茂澄-茂族
- 武雄鍋島家(肥前武雄領2万1600石(物成8640石)・龍造寺一門)維新後男爵
後藤(龍造寺)家信(龍造寺隆信の子)-鍋島茂綱-茂和-茂紀-茂正=茂昭(茂正の弟)-茂明-茂順-茂義-茂昌
- 須古鍋島家(肥前須古領8200石(物成3300石)・龍造寺一門)
龍造寺信周(龍造寺隆信の異母弟)-信昭-鍋島茂周-正辰-茂俊-茂清-茂明(須古鍋島家相続後、多久家を相続)=茂族(茂清の弟)-茂訓-茂倫-茂曹=茂臣(茂曹の弟)=茂真(鍋島斉直の十四男)-茂朝
家老
鍋島茂里(石井信忠の子、鍋島直茂の婿養子)-茂宗-武興-茂清=直朗(鍋島元茂の次男)-茂和-茂親=茂延(鍋島(倉町)敬文の子)-茂明
- 神代鍋島家(藩主一族・肥前神代領6263石(物成2500石)・重臣)
鍋島信房(鍋島直茂の兄)-茂昌-茂貞-嵩就-茂樹-茂快-茂英-茂興-茂真-茂体-茂堯-茂蘇=茂坤(茂蘇の弟)=茂元(鍋島斉直の子)
- 深堀鍋島家(藩主外戚・肥前深堀領6000石(物成2400石)・重臣)
深堀純賢=鍋島茂賢(石井信忠の子、鍋島茂里の弟)-茂里-茂春-茂久-茂厚-茂陳-茂雅-茂矩-茂長-茂勲
- 倉町鍋島家(佐賀藩内5075石(物成2030石)・重臣)
鍋島時重(鍋島清虎の子)-貞村-直広-茂村-茂敬-敬意=敬近(鍋島(川久保)直贇の子)-恒広-敬武-敬充-敬文-敬哉=文武(鍋島斉直の二十六男)
- 姉川鍋島家(藩主一族・肥前藩内5051石(物成2021石)・重臣)
鍋島清虎(鍋島直茂の従兄弟)-生三(道虎)-茂泰-清良-清長=清信(多久茂矩の子)=茂之(別名・茂喬、鍋島光茂の十六男)-茂親-茂徂-茂郷 =清央(鍋島茂順の子)=清馨
太田茂連(陽泰院石井氏の娘婿、鍋島勝茂の義兄)-茂歳-鍋島茂貞-茂晴-茂道-貞由-茂長=貞長(茂長の弟)-茂能-茂恒=茂郷(多久茂堯の子)=茂矩(多久茂孝の子)=茂快(鍋島斉直の二十九男)
着座
- 山代鍋島家(肥前芦原領・2250石)
鍋島茂貞(嵯峨源氏後裔・山代直の子)-方教-授-信賢-安-次-行-正
- 納富鍋島家(譜代・1500石)
納富長昭(龍造寺信周の子)-孝顕-
- 石井家(藩主外戚・譜代・1250石)
石井忠繁(鍋島直茂正室陽泰院の大叔父、直茂の義従兄)=茂利(行武長門守の子、鍋島直茂姪婿)-茂清-孝成-常辰-常尚-常与-孝澄-孝知-孝起-孝寛=孝祖(鍋島茂辰の子)-孝善
- 成富家(譜代・1500石)
成富茂安=長利(陽泰院石井氏の孫、鍋島勝茂の甥)=茂陛(龍造寺茂敬の子)-種弘-種恒-種徳-種模-種博-種美-種珍-濶
- 千葉家(譜代・1000石)
鍋島胤信(千葉胤連の子、鍋島直茂の義兄)-常貞(鹿江茂次の二男)-常治-常範=常成(常貞の子)
- 鍋島左太夫家(藩主一族・1500石)
- 岡部家(藩主外戚・1250石)
- 岡部家(藩主外戚・625石)
- 大木家(775石)
- 坂部家(1000石)
- 執行家(750石)
- 多久家(1000石)
- 伊万里鍋島家(925石)
- 中野家(637.5石)
- 中野家(500石)
- 成松家(500石)
- 原田家(625石)
- 深江家(750石)
- 岩村家(750石)
家臣団の特質
- 旧主龍造寺一族の藩政への関与
- 龍造寺政家・高房父子の没後も、龍造寺一族は健在であり、領内において広大な所領を有していた。龍造寺系の各家は、豊臣秀吉の九州国割りの際に、直接、秀吉から朱印状を下付されていたため、彼らには、「領地は太閤殿下より直々に安堵されたもので、鍋島家から与えられたものではない」という意識が強かった。それら一族は、鍋島家の藩政のもと、重臣として藩政を左右する枢要にあったが、鍋島家に遠慮して、龍造寺の姓を改めている。村田家・諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家はいずれも龍造寺一族である。
- 手明槍
- 龍造寺隆信の全盛期、北九州一帯の大小名を包括して家臣団がにわかに拡大形成されたが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおける隆信の横死により、龍造寺家の勢力が衰退し、支配地は大幅な減少を見せた。にもかかわらず、初期の家臣団をそのまま維持していたため、大きな財政負担になりつつあった。そこで初代藩主鍋島勝茂は、知行50石以下の侍の知行地を召し上げ無役とし、蔵米から禄を支給することにした。
- ただし戦時の際には、槍一本具足一領で軍役を担うこととされた。後年に至っては、「手明槍」でも諸役に任じられるようになった。
- 地方知行制
- 佐賀藩では、戦国時代の領国支配の形態を色濃く残しており、幕末まで、家臣の多くは知行地を持ち、そこから独自に年貢を徴収し軍役の備えを行ない、家来を養っていた。しかし、藩政時代後期は、藩の財政の逼迫により、知行取りから切米取りの侍が増えた。
- 上級家臣については、「大配分」と称され、本藩の統一支配ではなく、知行主の自治が行なわれていた。
藩校
- 弘道館(1781年)→佐賀市立勧興小学校、佐賀県立佐賀西高等学校
- 全国の藩校の中で、佐賀藩の落第者への処分は最も厳しく、規定の年齢に合格しなければ、【家禄の減俸】【役方への登用不許可(高い役職には付けない)】【罰金(米の供出)】が課せられる。武芸より学問の方を優先していたため、相当な勉強をしなければならない。だが、試験に合格することが目的になってしまい、本来、学問を学ぶ精神からあまりにかけ離れてしまった為、僅か9年で廃止[9]。
- 医学館(1834年)→好生館(1858年)→県立好生館病院→公立佐賀病院→佐賀県医療センター好生館
- 致遠館(1867年)→佐賀県立致遠館中学校・高等学校(名称借受)
- ^ 『久保田町史』「二 村田家の成立」 - 『久保田町史』久保田町史編さん委員会、久保田町(市町村合併により佐賀市サイトで公開)
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。
- ^ 龍造寺本家として扱われたが、鍋島家の養子を迎えてからは藩主親類としての扱いが強くなった。
- ^ その一方で、龍造寺一族は鍋島家をはばかって相次いで改姓し、1608年には藩内で表だって龍造寺姓を名乗るものはいなくなった。
- ^ ただし村田家は例外とされた。
- ^ 『佐賀市史』第二巻 【近世】一 佐賀藩の成立 p.15(佐賀市史編さん委員会 )
- ^ 藤野保『佐賀藩』吉川弘文館、2010年
- ^ 川副荘太田郷出身で太田資高の孫と称する資元が龍造寺家兼に仕え、のち他の竜造寺系家臣と同様に鍋島氏の家臣に組み込まれた。茂連の室は鍋島直茂の養女。
- ^ タイムスクープハンター(NHK総合1ch 11:30~0:00)2013年5月25日放送分 第7話『サムライたちの受験戦争』番組内説明
- 1 佐賀藩とは
- 2 佐賀藩の概要
- 3 明治以降の鍋島家当主
- 4 主な藩関係者・出身人物
- 5 参考文献
固有名詞の分類
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