佐賀藩 佐賀藩の概要

佐賀藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 23:56 UTC 版)

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佐賀城の鯱の門
佐賀藩
外様
35万7千石
佐賀藩の位置

藩主ははじめ龍造寺家、後に鍋島家。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩小城藩鹿島藩があった。

藩史

鍋島家は龍造寺の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、鍋島直茂が領地を継承して成立した。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた(鍋島騒動)。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。

佐賀藩成立

藩祖・鍋島直茂

天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島原半島において島津氏有馬氏の連合軍との戦いである沖田畷の戦いで敗死した。その遺児である政家の補佐役として実権を握ったのが、重臣の一人であった鍋島直茂である。天正18年(1590年)には政家を廃してその子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められた。以後、鍋島家は主家を圧倒することとなる。文禄・慶長の役、秀吉死後の関ヶ原の戦いにおいても直茂が大将として参戦した。関ヶ原では西軍に与したが、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで徳川家康より所領を安堵された。

慶長12年(1607年)、江戸において高房が急死した。これには、鍋島家に実権を握られて憤慨し失望した高房が、妻を殺害し自らも死のうとしたが果たせず、そのときの傷がもとでのちに亡くなった、という説がある。高房の死後わずか1か月後には、肥前に隠居していた父・政家も急死した。高房には遺児の伯庵、実弟の信清(のちの村田安良)・主膳がいたが、直茂の命で伯庵が出家するなどして龍造寺本家が事実上絶え、隆信と義兄弟の関係にあった直茂が、嫡男の勝茂に龍造寺家の家督を引き継がせる形で佐賀藩35万7千石を手にし、名実ともに大名となった。政家の遺領は信清が継ぎ、佐賀藩では龍造寺本家として扱われたが、慶長13年(1608年4月4日付けで直茂・勝茂に忠誠を誓う起請文を提出し[1]、鍋島家による領国支配が確立した。

慶長18年(1613年)、幕府より勝茂に領地安堵の沙汰が出たことで、ようやく安泰をみた。

徳川将軍家は、勝茂の嫡子忠直以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与した[2]

江戸時代の佐賀藩

佐賀藩は35万7千石の大封でありながらその実情は、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田[3]、久保田)と龍造寺4分家多久、武雄、諫早、須古)の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった。龍造寺家の支配体制を引き継いだため、龍造寺一族の所領もそのまま安堵する必要があったのである[4]。このため、幕府への普請役への出費などを理由に、家臣の領地3割を返上させる「三部上地」を2度(慶長16年(1611年)、元和7年(1621年))実施し、直轄領拡大を行っている。1度目は全家臣[5]、2度目は龍造寺4分家が対象となった。また、龍造寺4分家に差し出させた知行を支藩に割り当てたり、龍造寺4分家に養子を送り込むなどして、徐々に藩全体の鍋島化を図っていった。

当初は、鍋島家の一族鍋島生三、鍋島家の外戚家門である石井家鍋島(石井)茂里らが藩政を主導していたが、のちに多久、諫早、武雄、須古の龍造寺4家が藩政の実権を握ってゆく。これは、藩政を龍造寺4家に担当させる一方、財政面の責任も取らせようとした「勝茂の真に巧妙な統治策」の結果であるという[6]寛永11年(1634年)、高房の遺児・伯庵が幕府に龍造寺家再興を訴え、その後もたびたび訴訟を起こしたが、佐賀藩の大勢は鍋島家の支配を支持しており、幕府も伯庵の訴えを取り上げることはなかった。

2代・光茂に仕えた山本常朝の口述を著した「武士道とは死ぬことと見つけたり」で知られる『葉隠聞書』は、後の佐賀藩の精神的支柱となった。

佐賀藩は長崎に程近いため、幕府より福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかった。文化5年(1808年)、ナポレオン戦争により、イギリスのフリゲート艦が長崎へ侵入してオランダ商館の引渡しを要求するフェートン号事件が起こったが、佐賀藩は無断で警備人員を減らしていたため必要な対策がとれず、その不手際を幕府から叱責される。また1828年シーボルト台風で死者1万人弱の被害を出し、財政が破綻寸前に陥るなど、藩をとりまく状況は悪化した。

10代藩主・直正(閑叟)以降、藩政改革や西洋技術の摂取に努めた。特に大がかりなリストラを行い、役人を5分の1に削減、農民の保護育成、陶器石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ、藩財政は潤った。

幕末維新期の佐賀藩

第10代藩主・鍋島直正(閑叟)
凌風丸を描いた絵図(作者は鍋島直正の孫の鍋島直映、画像左)と戊辰戦争で活躍したとされる佐賀藩製のアームストロング砲(画像右)

鍋島直正は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発・生産を行い、幕末期における最も近代化された藩の一つとなった。長崎警備を共にしていた福岡藩と共にいち早く牛痘ワクチンを輸入し、嫡子直大種痘を施すことで普及に努め、当時は不治の病であった天然痘根絶を成し遂げる先駆けになった(ちなみに秋月藩の藩医である緒方春朔が、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させている)。嘉永2年(1849年)に日本最初の製鉄所を完成させた。黒船来航の前年にあたる1852年には、築地反射炉を本格的に稼動させる。黒船来航の半年前、プチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港し、模型蒸気機関車を披露する。この公開から得た情報を元に、精錬方のトップエンジニアである石黒寛次、中村奇輔、田中久重らが蒸気機関車と蒸気船の製造を試み、成功している(蒸気機関車模型は現在鉄道記念物に制定されている)。1853年に幕府が大船建造の禁を緩和すると、オランダに軍艦を発注した。また、領内に三重津海軍所を設置して、安政年間には西洋式蒸気船の建造計画をたて、慶応元年(1865年)には日本最初の実用蒸気船凌風丸」を進水させ、有明海内の要人輸送に活用している。1855年に長崎海軍伝習所が作られると、学生を派遣した。慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させたと称し、藩の洋式軍に配備した。アームストロング砲製造の事実については異論があるが、アームストロング砲の製造の成功に言及しているのは、からくり儀右衛門こと田中久重であるため全く根拠がない訳ではない(アームストロング砲参照)。その他、四斤砲の製造と実用化に成功し、後に品川台場に施された砲台にも利用された。

佐賀鍋島藩屋敷跡石碑(京都市下京区)

軍政改革について、文久3年(1862年)9月と10月に評議を行い、従来の「与私」・「」体制を解体して洋式銃砲隊の編成を指向した。しかし第一次長州戦争で家臣団編成の不備を体験し、慶応元年(1865年)に実戦に即した以下の軍政改革を行った。

  • 大組体制を16大組体制から13大組体制へ移行し、長崎警備偏重の火術組中心の編成から、全大組の平均的増強を図った。
  • 直臣・陪臣の区別を無くし、全家臣団に火術練熟と銃陣法の採用を命じ、大組頭の相談役として組肝煎を各大組に設置して統制を強化した。
  • 領内在地の小身家臣について、伊万里・白石・三根・山辺に火術稽古場を設けて銃体訓練の充実を図った
  • 海軍について、船方・船手に分かれていた仕組を統合して実戦向きの体制とした。

第二次長州戦争では筑前まで出陣したが、実戦を体験しなかった。慶応2年(1866年)から3年(1867年)にかけて兵力の増強を図ったが、これは長州藩などが農(商)隊を編成したのに対し、佐賀藩では侍・手明鑓・足軽の次男・三男からの増強を図り、家臣団による統制力を保ったまま軍事力を高めたことに特徴があった[7]

このように一貫して当時の日本における産業革命を推進してきた佐賀藩は、パリ万国博覧会 (1867年)に出展するなど、日本有数の軍事力と技術力を誇ったが、中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還王政復古まで静観を続けた。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、国内でも珍しい「鎖国藩」といわれた。しかし1867年には、藩主直大が新政府から北陸道先鋒に任命されて、佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上、江戸における上野戦争などで戦い、その結果、明治政府に多数の人物が登用された。明治維新を推進させた人物を輩出した藩を指す薩長土肥に数えられ、副島種臣江藤新平大隈重信大木喬任佐野常民らが活躍した。また田中久重等、他藩の有能な人材を積極的に重用し、日本の近代化に貢献した。だが、江藤新平と島義勇は明治7年(1874年)に佐賀の乱を起こし処刑されている。

明治4年(1871年)、廃藩置県により佐賀県となった。藩主の鍋島家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)の華族令侯爵に叙せられた。

歴代藩主

龍造寺家

  1. 高房

鍋島家

  1. 勝茂
  2. 光茂
  3. 綱茂
  4. 吉茂
  5. 宗茂
  6. 宗教
  7. 重茂
  8. 治茂
  9. 斉直
  10. 直正
  11. 直大

  1. ^ 『久保田町史』「二 村田家の成立」 - 『久保田町史』久保田町史編さん委員会、久保田町(市町村合併により佐賀市サイトで公開)
  2. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。
  3. ^ 龍造寺本家として扱われたが、鍋島家の養子を迎えてからは藩主親類としての扱いが強くなった。
  4. ^ その一方で、龍造寺一族は鍋島家をはばかって相次いで改姓し、1608年には藩内で表だって龍造寺姓を名乗るものはいなくなった。
  5. ^ ただし村田家は例外とされた。
  6. ^ 『佐賀市史』第二巻 【近世】一 佐賀藩の成立 p.15(佐賀市史編さん委員会 )
  7. ^ 藤野保『佐賀藩』吉川弘文館、2010年
  8. ^ 川副荘太田郷出身で太田資高の孫と称する資元が龍造寺家兼に仕え、のち他の竜造寺系家臣と同様に鍋島氏の家臣に組み込まれた。茂連の室は鍋島直茂の養女。


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