フリードリヒ・ニーチェ
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それ以後の哲学・思想への影響
ニーチェの哲学がそれ以後の文学・哲学に与えた影響は多大なものがあり、影響を受けた人物をあげるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響を受けた哲学者、思想家としてはハイデガー、ユンガー、バタイユ、フーコー、ドゥルーズ、デリダらがいる。1968年のフランス五月革命の民主化運動も、思想背景はニーチェだった。
個々の著作の概要
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『悲劇の誕生』
当初の表題は『音楽の精神からの悲劇の誕生』(1886年の新版以降は『悲劇の誕生、あるいはギリシア精神とペシミズム』に改題)がある。これは、哲学書ではなく西洋古典学での文献学書である。
ニーチェにしてみれば、明朗快活な古代ギリシア時代という当時の常識を覆し、アポロン的―ディオニュソス的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読するという当時の古典文献学の手法からすれば、暴挙に近いものだった。そのため、周囲からは学問的厳密さを欠く著作として受け取られ、ヴァーグナーや友人のローデを除いて、学界からは完全に黙殺された。
また、師匠のリッチュルも、単にヴァーグナーの音楽を賛美するために古典文献学を利用したと思い、「才気を失った酔っ払い」の書と酷評したため、リッチュルとの関係が悪化した。この書の評判が響いて、発表した1872年の冬学期のニーチェの講義を聞くものは、わずかに2名であった(古典文献学専攻の学生は皆無)。満を持してこの本を出版したニーチェは、大きなショックを受けた。
同時代の古典文献学者の中でほぼ唯一、ニーチェの考えを積極的に受容したのがイギリスのケンブリッジ儀礼学派の祖ジェーン・エレン・ハリソンであった。ハリソンは1903年の著書『Prolegomena to the Study of Greek Religion』において、ディオニュソス信仰とオルフェウス教の密儀によって古代ギリシア人のオリンポスの神々への信仰が「宗教」と呼べるものに転換していったと主張した[25]。
そして、ニーチェは、自身の著作が受け容れられないのは、現代のキリスト教的価値観に囚われたままで古典を読解するという当時の古典文献学の方法にあると考え、やがて激しい古典文献学批判を行なう。そして、『悲劇の誕生』で説いたような、悲劇の精神から遊離し、生というものを見ず、俗物的日常性に埋没し、単に教養することに自己満足して、その教養を自身の生にまったく活用しようとしない、当時のドイツに蔓延していた風潮を、「教養俗物」(Bildungsphilister)と名づけ、それに対する辛辣な批判を後の『反時代的考察』で展開していくことになる。
『反時代的考察』
これは、ヨーロッパ、特にドイツの文化の現状に関して、1873年から1876年にかけて執筆された4編(当初は13編のものとして構想された)からなる評論集である。
- 「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(1873年):これは、当時のドイツ思想を代表していたダーフィト・シュトラウスの『古き信仰と新しき信仰: 告白』(1871年)への論駁である。ニーチェは、科学的に、すなわち歴史の進歩に基づく決然とした普遍的技法によって、シュトラウスの言う「新しい信仰」なるものが文化の頽廃にしか寄与しない低俗な概念に過ぎないことを喝破したばかりか、シュトラウス本人をも俗物と呼んで攻撃した。
- 「生に対する歴史の利害」(1874年):ここでは、単なる歴史に関する知識の蓄積をもってことが足りるとする従来の考え方を退け、「生」を主要な概念として、新たな歴史の読み方を提示し、さらにはそれが社会の健全さを高めもするであろうことを説明する。
- 「教育者としてのショーペンハウアー」(1874年):アルトゥル・ショーペンハウアーの天才的な哲学がドイツ文化の復興をもたらすであろうことが述べられる。ニーチェは、ショーペンハウアーの個人主義や誠実さ、不動の意志だけでなく、ペシミズムによって、この有名な哲学者の陽気さに注目している。
- 「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」(1876年):この論文では、リヒャルト・ワーグナーの心理学を探求している。当時のニーチェの心の中では、ワーグナーへの心酔と疑念が入り混じっていたため、対象となっている人物との親密さのわりには、追従めいたところがない。そのため、ニーチェはしばらく出版をためらっていたが、結局はワーグナーに対して批判的な文言の控えめな状態の原稿を出版した。にもかかわらず、この評論はやがて訪れる二人の決裂の兆しを見せている。
『人間的な、あまりにも人間的な』
1878年に初版を刊行、1886年の第2版からは『さまざまな意見と箴言』(1879年)と『漂泊者とその影』(1880年)をそれぞれ第2巻第1部および第2部として増補、題名も『人間的な、あまりに人間的な ―― 自由精神のための書』と改めた。本書はニーチェの中期を代表する著作であり、ドイツ・ロマン主義およびワーグナーとの決別や明瞭な実証主義的傾向が見て取られる。
また、本書の形式にも注目する必要がある。体系的な哲学の構築を避け、短いものは1行、長いものでも1、2ページからなるアフォリズム数百篇によって構成するという中期以降のスタイルは、本書をもって嚆矢とする。この本では、ニーチェの思想の根本要素が垣間見られるとはいえ、何かを解釈するというよりは、真偽の定かでない前提の暴露を盛り合わせたものである。ニーチェは、「パースペクティヴィズム」と「力への意志」という概念を用いている。
『曙光』
『曙光』(1881年)において、ニーチェは、動因としての快楽主義の役割を斥けて「力の感覚」を強調する。また、道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判が完成の域に達した。この明晰で穏やかで個人的な文体のアフォリズム集の中で、ニーチェが求めているのは、自分の見解に対する読者の理解よりも、自らが特殊な体験を得ることであるようにも見られる。この本でもまた、後年の思想の萌芽が散見される。
『悦ばしき知識』
『悦ばしき知識』(1882年)は、ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続きアフォリズム形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルはトルバドゥールの作詩法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)。
たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立するものである。
永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張である。
NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ちむどんどん」において、この書に含まれた箴言の一つが、ヒロインが修行するレストランの名前の由来とされている[注 14]。
『ツァラトゥストラはかく語りき』
『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェの主著であるとされており、またリヒャルト・シュトラウスに、同名の交響詩を作曲させるきっかけとなった。なお、ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教(拝火教)の開祖ザラスシュトラの名前のドイツ語形の一つであるが、歴史上の人物とは直接関係のない文脈で思想表現の器として利用されるにとどまっている。
その他
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- 『善悪の彼岸』
- 『道徳の系譜』
- 『偶像の黄昏』
- 『ヴァーグナーの場合』
- 『アンチクリスト』(『反キリスト者』;独語Der Antichrist)
- 『この人を見よ』
- 『ニーチェ対ヴァーグナー』
- 『力への意志』(ニーチェの死後、遺稿を元にエリーザベトが編集出版したもの。長らくニーチェの主著と見なされていた。)
作曲
ニーチェは、専門的な音楽教育を受けたわけではなかったが、13歳頃から20歳頃にかけて歌曲やピアノ曲などを作曲した。その後、作曲することはなくなったが、ヴァーグナーとの出会いを通して刺激を受け、バーゼル時代にもいくつかの曲を残している。「生涯で70を越す楽曲を作曲したそうである」[26]。作風は前期ロマン派的であり、シューベルトやシューマンを思わせる。彼が後にまったく作曲をしなくなったのは、本業で忙しくなったという理由のほかに、自信作であった『マンフレッド瞑想曲』をハンス・フォン・ビューローに酷評されたことが理由として考えられる。
現在に至るまで、ニーチェが作曲家として認識されたことはほとんどないが、著名な哲学者の作曲した作品ということで、一部の演奏家が録音で取り上げるようになり、徐々に彼の「作曲もする哲学者」としての側面が明らかになっている。彼の作品は、すべて歌曲かピアノ曲のどちらかであるが、四手連弾の作品の中には『マンフレッド瞑想曲』交響詩『エルマナリヒ』など、オーケストラを念頭に置いて書かれたであろう作品も存在する。また、オペラのスケッチを残しており、2007年にジークフリート・マトゥスがそのスケッチを骨子としてオペラ『コジマ』を作曲した。
- ニーチェ音楽関連年譜
- マンフレッド瞑想曲
- ニーチェ作品集
- 新作オペラ『コジマ』
注釈
- ^ 命日に関しては、他にも様々な主張がある。
- ^ 卒業生には、ゴットフリート・ライプニッツ、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、レオポルト・フォン・ランケ、シュレーゲル兄弟などがいる。
- ^ ただし、普仏戦争(1870年 - 1871年)中の一時期だけはプロイセン軍に従軍し、トラウマにもなる経験をしたうえにジフテリアや赤痢を患ったりもしている。
- ^ 1919年にノーベル文学賞を受賞した作家。処女作『プロメテウスとエピメテウス』はしばしば『ツァラトゥストラ』からの影響が指摘される。
- ^ ニーチェはケラーの教養小説『緑のハインリヒ』を、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ作『ヴィルヘルム・マイスター』やアーダルベルト・シュティフター作『晩夏』とともにドイツ文学の中で最も高く評価している。
- ^ ニーチェは1886年に『善悪の彼岸』をテーヌに寄贈し、後日テーヌから好意的な礼状を受け取っている。
- ^ 『道徳の系譜』を寄贈されたことがニーチェとの交流の契機となった。
- ^ キェルケゴールはニーチェが著述活動を始める前の1855年に亡くなっているうえ、ニーチェはこの後すぐに発狂してしまったため、ともに「実存主義の始祖」として知られる2人は互いの思想に触れることがなかったと長らく信じられてきた。しかし、その後の研究の結果、キェルケゴールの思想を解説・批評した二次資料のいくつかをニーチェが読んでいたことが明らかになっている。
- ^ ニーチェ自身がいかに神聖視されたくないかを『この人を見よ』の中で語っていることに注意する必要がある。「私は聖者にはなりたくない。道化のほうがまだましだ」
- ^
- ^ 引用者訳注:ニーチェの思想を歪曲して利用したらしい反ユダヤ主義文書。
- ^ 元は『偶像の黄昏』の校正稿に入っていたものをニーチェが自分で抜き出した原稿[24]。傍点は引用文献のまま。記号の意味については引用文献を参照のこと。
- ^ エリーザベト・ニーチェが捏造した『力への意志』では734番に充てられている。734番はニーチェが『偶像の黄昏』校正稿から抜いた原稿と同じ内容である。『力への意志』日本語訳では次のように書かれている。
人間愛のいま一つの命令 。――子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や精神薄弱症にかかっている者の場合である。そのときにはどうしたらいいのか?(中略) 社会は、生の大受託者として、生自身に対して 生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、――またそれを贖うべきである、したがってそれを防止すべき である。しかもその上、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、 事情によっては去勢をも用意しておくことが許されている。(後略)—フリードリッヒ・ニーチェ、フリードリッヒ・ニーチェ 著、原佑 訳、信太正三・原佑・吉沢伝三郎 編『ニーチェ全集 権力への意志 (下) すべての価値の価値転換の試み』理想社、1962年、216-217頁。傍点は原文のまま。 - ^ 第18週、90回、2022年8月12日放送。レストラン名はイタリア語 “alla fontana“ (「泉」、「泉にて」、「泉へ」)。箴言の題は、“Unverzagt“ (「意気盛ん」、「気後れせずに」、「臆することなく」)。箴言は4行であるが、番組ではその前半部がレストランのオーナー自身によって「汝の立つ処深く掘れ、/ そこに必ず泉あり」と紹介されている。なお、原文は „Wo du stehst, grab tief hinein! / Drunten ist die Quelle!“ Die fröhliche Wissenschaft (projekt-gutenberg.org) 2022年8月15日閲覧。信太正三訳(『ニーチェ全集』8 理想社1980年、20頁)では「ひるまずに」と題して「お前の立つところを 深く掘り下げよ! / その下に 泉がある!」と訳されている。その後には、「「下はいつも――地獄だ!」、と叫ぶのは、/ 黒衣の隠者流に まかせよう。」と続く。
出典
- ^ a b Hecker, Hellmuth: "Nietzsches Staatsangehörigkeit als Rechtsfrage", Neue Juristische Wochenschrift, Jg. 40, 1987, nr. 23, pp. 1388–91.
- ^ a b His, Eduard: "Friedrich Nietzsches Heimatlosigkeit", Basler Zeitschrift für Geschichte und Altertumskunde, vol. 40, 1941, pp. 159-186
- ^ 『現代独和辞典』三修社、1992年、第1354版による。
- ^ 『人と思想22ニーチェ』第26刷p47-48
- ^ 『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷、pp.166-168
- ^ 『人と思想22ニーチェ』第26刷p50-51
- ^ 『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷、pp.170-171
- ^ 『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷、pp.166-168,184-185,198
- ^ 『人と思想22ニーチェ』第26刷p52
- ^ 『人と思想22ニーチェ』第26刷p63 - 64
- ^ 『人と思想22 ニーチェ』第26刷p108
- ^ a b c 小坂国継,岡部英男 編著 2005, p. 207.
- ^ 小坂国継,岡部英男 編著 2005, p. 208.
- ^ a b 小坂国継,岡部英男 編著 2005, p. 210.
- ^ 川鍋征行「ニーチェの仏教理解」『比較思想研究 』第8巻 pp.44-46
- ^ 塚越敏訳、書簡集1、ニーチェ全集第一五巻。二九〇頁。
- ^ 川原栄峰訳『この人をみよ』ニーチェ全集第一四巻、理想社、三〇頁。
- ^ 原佑 1980, pp. 165–166
- ^ 原佑 1980, pp. 162–163
- ^ 原佑 1980, pp. 164
- ^ 原佑訳「権力への意志」ニーチェ全集一一巻、理想社、一五四。
- ^ 信太正三訳『悦ばしき知識』ニーチェ全集第八巻、理想社、第三、一〇八。
- ^ Sämtliceh Werke Kritische Studienausgabe. Band 10, Herausgegeben von Giorgio Colli und Maggino Montinari. p.109
- ^ フリードリッヒ・ニーチェ 著、氷上英廣 訳『ニーチェ全集 第II期第12巻 遺された断想 (1888年5月-1889年初頭)』白水社、1985年8月30日、125頁。
- ^ ハンス・キッペンベルク『宗教史の発見 宗教学と近代』158頁/166頁-169頁(月本昭男、久保田浩、渡辺学共訳 岩波書店、2005年)
- ^ 井戸田総一郎「ニーチェーーピアノと文体」〔Brunnen. Juni 2023, Nr.530 Ikubundo(郁文堂)3-5頁、引用は3頁。〕
- ^ 渡邊二郎「ニーチェ全集の歴史」渡邊二郎・西尾幹二編『ニーチェを知る事典 その深淵と多面的世界』ちくま学芸文庫、2013年。三島憲一「さまざまなニーチェ全集について」『ニーチェ事典』弘文堂、1995年。
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- 2 フリードリヒ・ニーチェの概要
- 3 概要
- 4 ナチズムへの利用
- 5 それ以後の哲学・思想への影響
- 6 著作
- 7 脚注
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