鍵盤楽曲
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「ディートリヒ・ブクステフーデ」の記事における「鍵盤楽曲」の解説
ブクステフーデのオルガン作品は、自由曲、コラール編曲ともに約40曲が現存する。自由曲の多くは、即興的なプレリュードと対位法的なフーガを含んでいるが、「前奏曲とフーガ」と通称されるように、一対のプレリュードとフーガから構成される作品は少ない。典型的な楽曲構成は、北ドイツ・オルガン・トッカータといわれる5部形式であり、冒頭部-第1フーガ-間奏部-第2フーガ-終結部といった展開を示す。BuxWV137, 148のように後続するフーガに代えてオスティナート形式が導入されることもある。自由な部分は即興的な性格が強く、とくに冒頭部は入念に展開され、技巧的なパッセージや大胆な和声進行等を伴って、リズム、テンポ、拍子のさまざまな対比が試みられる。リューベックの聖母マリア教会のオルガンは足鍵盤のストップ数が最も多く、ブクステフーデのオルガン作品においても低声部は重要な役割が与えられており、BuxWV137, 143のように足鍵盤の技巧的なソロで開始する楽曲も存在する。また、フーガでは二重対位法やストレッタが多用され、足鍵盤が独立した声部を担当してテクスチュアに厚みが加えられている。その他の自由曲としては、3曲のオスティナート楽曲や足鍵盤をもたないカンツォーナ等がある。ニ短調のパッサカリア(BuxWV161)は、後にヨハネス・ブラームスが関心を寄せたことでも知られており、足鍵盤をもたない自由曲は、チェンバロによる演奏も可能である。 一方、オルガンのためのコラール編曲は、コラール前奏曲、コラール変奏曲、コラール幻想曲に分類される。コラール編曲の大半を占めるコラール前奏曲は、会衆によるコラールの前奏として用いられたものであり、コラール旋律が豊かに装飾されて上声部に置かれ、他の3声部が手鍵盤と足鍵盤に分けて伴奏される。また、コラール幻想曲においては、声楽コンチェルトの作曲技法が応用され、コラールの各フレーズが即興的に大きく展開されており、滔々と流れるファンタジーのうちに、ブクステフーデの敬虔な信仰心を感じさせる。 ブクステフーデのオルガン作品に見られる即興性は、17世紀北ドイツにおけるスティルス・ファンタスティクス(幻想様式、stylus fantasticus)の典型とされる。スティルス・ファンタスティクスとは、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターが1732年に出版した『音楽事典(Musicalisches Lexicon)』によれば、あらゆる制約から解放された様式であり、ヨハン・マッテゾンは、『完全なる楽長(Der vollkommene Capellmeister)』(1739年)において、ブクステフーデの前奏曲(BuxWV152)をスティルス・ファンタスティクスの実例として挙げている。リューベックでブクステフーデの演奏を目の当たりにしたバッハは、中部ドイツのアルンシュタットでその成果を試したものの、礼拝時のオルガン演奏に奇妙な変奏や多くの耳慣れない音を混入させたとして教会当局から強く叱責されたが、このことは北ドイツの音楽風土の特異性とともに、ブクステフーデの音楽の自由な性格をもよく示している。 この他、チェンバロまたはクラヴィコードのための作品として、21曲の組曲と6曲の変奏曲が現存する。マッテゾンが『完全なる楽長』で言及した7つの惑星の性質を模した組曲(BuxWV251)は今日消失している。一方、ニ短調の組曲(BuxWV deest)は、1710年にアムステルダムで出版された作者不詳の組曲のなかから、2004年にピーター・ディルクセンによって発見されたものである。これらの組曲はいずれもアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという舞曲の標準的な配列を基本とし、スティル・ブリゼが頻繁に用いられる。また、カプリッチョーサにもとづく32の変奏曲(BuxWV250)をはじめとする世俗的変奏曲では、鍵盤楽器による多様な変奏技法が追求されている。
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鍵盤楽曲
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主にピアノに向かって作曲するようになったニールセンであったが、40年の歳月の中でも直接的なピアノのための楽曲は時おり作曲する程度であった。そうした楽曲は独特なスタイルであることが多く、そのために国際的に受け入れられるのに時間がかかった。ニールセンのピアノの腕前はというと、おそらくオーフスの国立公文書館に「カール・ニールセン」と記されて3つの蝋管に保存されていたものから判断するに、平凡だったようである。ピアニストのジョン・オグドンが1961年に行った録音への論評として、ジョン・ホートンは初期作品について「ニールセンの技巧の引き出しは彼の構想の壮大さにほとんど見合っていない」と言及している。一方で後期作品は「彼の交響作品に比肩し得る主要作品群」であると看做していた。非ロマン的な『交響的組曲』 作品8(1894年)は後世の評論家によって「確立されたあらゆる音楽的慣習を前に、まっすぐ固く握りしめられた拳に他ならない」と評されている。ニールセン自身の言によれば『シャコンヌ』 作品32(1917年)は「真に大きな作品であり、効果的であると思っている。」この作品はバッハ、特に独奏ヴァイオリンのためのシャコンヌのみならず、ロベルト・シューマン、ヨハネス・ブラームス、フェルッチョ・ブゾーニらによるピアノのためのバッハ作品のヴィルトゥオーゾ編曲にも触発されている。同年にはやはり規模の大きな『主題と変奏』 作品41が書かれている。評論家はこの作品にブラームスとマックス・レーガーの影響を認めているが、ニールセンは友人に宛てた手紙の中で次のように述べている。「大衆はレーガー作品を全く理解することができなくなるように思われますが、それでも私は彼の労作群に強い同情を覚えるのです(中略)リヒャルト・シュトラウスに対するよりもずっと。」 オルガン曲は全て後期作品である。デンマークのオルガニストであるフィン・ヴィーザウーはニールセンがオルガン運動(Orgelbewegung)、並びにハンブルクの聖ヤコビ教会(英語版)に建造されたアルプ・シュニットガー製のオルガンの前面パイプが、1928年から1930年にかけて刷新されたことに興味を掻き立てられたのだと唱えている。ニールセン最後の主要作品となった『コンモツィオ』 作品58は演奏に22分を要するオルガン作品で、彼の死のわずか数か月前にあたる1930年6月から1931年2月にかけて作曲された。
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「モートン・フェルドマン」の記事における「鍵盤楽曲」の解説
最後の小品(1959年) ピアノ(1977年) 三和音の記憶(1981年) - 3人のピアニスト(デイヴィッド・チューダー、ロジャー・ウッドワード、高橋アキ)の思い出に関する作品。 バニタ・マーカスのために(1985年) マリの宮殿(1986年)
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「チャールズ・アイヴズ」の記事における「鍵盤楽曲」の解説
「アメリカ」の主題による変奏曲(オルガン曲、1891年) ピアノソナタ第1番(1902年〜09年) ピアノソナタ第2番「マサチューセッツ州コンコード、1840年〜60年」(コンコード・ソナタ) (1909年〜15年)エマーソン(任意でヴィオラが参加) ホーソーン オールコット家の人々(若草物語の作者ルイーザ・メイ・オルコットとその父エイモス・ブロンソン・オルコットにちなんでいる) ソロー(任意でフルートが参加、改訂版ではヴィオラも参加できる。) スリー・ページ・ソナタ(ピアノソナタ)(1905年)(自筆譜が3ページ。出版譜は10ページ前後ある。オプションで、ベルまたはチェレスタが加わる) 2台のピアノのための「四分音による3つの小品」Three Quarter Tone Piano Pieces (1923年〜24年)
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