采配・指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:18 UTC 版)
本人の遊び人性格もあって、監督時代も選手がグラウンドの外で何をしようが、試合で結果を出せば何も言わなかったが、練習そのものはかなり厳しかったことで知られる。ただし、1989年にコンディショニングコーチに就任した立花龍司は、まだ日本では普及していなかった量より質を重視した最新のトレーニング理論を導入しようとしていたが、他のコーチが反発する中で理解を示し、その年リーグ優勝を達成したことで、立花を高く評価した。 光山英和は「阿波野や野茂などの一流の選手には何も言わなかった。そうでない選手にはむちゃくちゃ厳しかった」と語っている。その光山は、1991年9月26日の福岡ダイエー戦でベンチに捕手登録の選手が残っていないにもかかわらず、8回裏1点ビハインドの場面で1アウト満塁のチャンスだったため、代打に中根仁を出されたことがある。その試合ではその後、その日三塁を守っていた金村義明を捕手で起用した。現役時代、光山は仰木が嫌いだったとしているが、指導者になった現在は「仰木さんならどうするか」と考えることがあるという。 オリックス監督時代のある日の試合、相手チームに大量リードを許している試合の終盤で、守備要員としてベンチに入ることが多かった野手に「おい、次の回守るぞ」と守備固めに入るよう伝えたところ、「えっ」という驚きの反応を見せられたことから(一般的に守備固めによる野手交代は自軍がリードしている場面で行われることが多く、大量ビハインドの場面でのこうした交代は非常に珍しい)、不機嫌そうに「もういい」と言い、翌日その野手に2軍降格を命じた。この出来事が遠因なのか不幸な偶然の一致なのか、その選手はその年限りで自由契約となってしまった。 岡田彰布は選手・コーチとして9人の監督の下プレー、指導したが一番影響受けている監督に仰木を挙げている。「阪神しか知らなかったオレはオリックスに移り、エッと驚くことの連続だった。例えば先発メンバー、仰木さん固定しないのよ。毎試合メンバーが違う。そう、日替わりメンバーでそれが当たり前のようだった。こんな野球初めての経験した。でも、これは直感で行っているものではなく仰木さんがデータを調べて分析して、答えを導き出しわけよ。そこには根拠がありそれが正解であったということを結果を示した。それがオレには衝撃であり、野球に対する考え方を変えてくれた恩人だった。」と述べている。 オリックス監督時代の96年のオールスターゲームで監督を務めた際に、当時オリックスのイチローを投手として登板させ、話題となった。打者は巨人の松井秀喜だったが、セ・リーグ監督の野村克也は野手であるイチローのパフォーマンス的な登板に抗議する意味で、代打にヤクルト投手の高津臣吾を送った(結果は内野ゴロ)。なお、その前年に仰木率いるオリックスは、西武戦で東尾修監督がピッチャーとして登板させたオレステス・デストラーデと対戦している(デストラーデは1死も取れずに降板)。 采配の特徴として「投手の起用、投手の交代を小刻みにおこなう」ことが非常に多い点が挙げられ、勝利のためには無茶な投手起用を厭わない場面もしばしば見られた。ワンポイントリリーフは勿論、1人の打者に対して打席が完了する前に継投したこともしばしばあったため、近鉄監督時代には権藤博投手コーチや吉井理人と、オリックス監督時代には山田久志投手コーチと対立することがあった。権藤は著書の中で「仰木さんに呼ばれてバファローズに入ったのだが、キャンプの段階からこの人話を聞かない人だな」「仰木さんとの衝突を挙げれば本当にキリがない」「仰木さんは私にとって最高の反面教師。べからず集を一番提供してくれた」と書く一方で、「勝つことに対してとても貪欲で、なおかつ自分の直感を何よりも信じている人だった。彼が名指導者として人々の記憶に残っているのは、そんな彼の資質に由来しているような気がする」と記している。 攻撃面では、スタメンを固定することが少なく、日替わりで毎日打順が変わり、オリックス時代は「猫の目打線」と呼ばれていた。しかしこれは緻密なデータによるものであり、イチロー以外にシーズンを通して打てる選手がほとんどいなかった事、相手投手と自チームの打者との相性を考えていた事、さらに1994年からパ・リーグで予告先発が導入された事、これらによって行われていた物で、結果的に成功をおさめ、仰木マジックの面目躍如とされることになった。また、メンバー起用の幅を広げるために選手に複数ポジションを守ることを求め、内野手が複数ポジションを兼任したり、外野守備に定評のあった谷佳知、本西厚博、田口壮を内野で起用することもあった。 「打倒西武」を唱え続けていた。当時の西武ライオンズは黄金期にあり、1982-98年の17シーズンでパ・リーグ優勝13回と他チームを圧倒していたが、残る4シーズンのうち1984年を除く3シーズンでは仰木が監督をしたチームが優勝している。 パンチ佐藤に芸能界転向を薦めたのも仰木である。仰木は既に佐藤が芸能界に向いていると見抜いており「お前は野球をやっても大成出来ないが、芸能人なら大成できるから野球をやめろ」とストレートに戦力外通告したが、言われた佐藤は怒るどころか「ハイ、辞めます」と二つ返事で答えて引退を決意した。佐藤もまた仰木を非常に尊敬しており、仰木の意見を無条件で受け入れた。 自動車を運転しないため、球場へのアクセスは電車やタクシーを利用していた。近鉄時代には、新大阪駅近くの自宅マンションから地下鉄御堂筋線と近鉄南大阪線を乗り継いで藤井寺駅まで通っており、電車内でファンに声を掛けられることも多かった。近鉄監督最終年となる1992年には、親会社である近畿日本鉄道のダイヤ改正告知や、近鉄特急「アーバンライナー」のイメージキャラクターに起用された。 2001年10月5日、既にオリックス監督退任を発表しており、最終戦となる近鉄戦(グリーンスタジアム神戸)では、試合後のオリックスの選手による胴上げに次いで、対戦相手である近鉄の選手たちからも胴上げをされた。 2005年6月4日の広島戦で、投手交代の是非をめぐって、44分間審判に抗議を行い、遅延行為により退場処分を受けた。仰木は「審判にはコースについて少し抗議したというものであって投手交代ではない。審判が聞き違えた」と主張したが、認められなかった。この試合の球審だった土山剛弘は「確かに『投手交代、菊地原』と聞き、仰木監督が復唱した」と主張し、両者の言い分は真っ向から対立した。この2人のやりとりの口の動きを毎日放送のニュース番組「VOICE」が詳細に分析し、仰木が土山に、投球の判定について「コース、低いかな?」と尋ねたところ、土山球審が「投手、菊地原」と聞き違え、そこから「言ってもいない投手交代がコールされたとみられる」と報じた。ビデオには、仰木が身振りを交えてコースについて尋ねている様子が映っている。 2005年7月16日のロッテ戦で、ランドール・サイモンのショートゴロの間に谷佳知が本塁に突っ込み、アウトを宣告されたことに激昂した谷が球審の胸を突き飛ばしたが、仰木もベンチから飛び出し、猛抗議で審判に暴言を吐いたとして、2005年シーズン2度目の退場処分を受けた。仰木にとってはこれが最後の退場となったが、70歳3ヶ月での退場処分は日本プロ野球最高齢記録である。 清川栄治がオリックスの投手コーチに就任した際、仰木がオリックス・バファローズ初代監督時の背番号「70」を背負っている。清川は背番号「70」を選んだ理由として「同じ背番号を背負い、指導者として一歩でも仰木さんに近づきたい」と語っている。清川は仰木の下で1991年 - 1992年の2年間プレーした。 オリックスの宮内義彦オーナーは「仰木さんは、若い選手を使うのが非常にうまく、プロ野球史上に残る名監督だったと思います。もちろん野球をよく知っているだけでなく、若い選手をその気にさせ、競わせる。人柄も好きでした。あっさりしていながら、礼儀正しい。情というのが分かる人でした。選手のプレーだけでなく、精神状態がよく分かって、人に対して非常に優しい人間でした。いろんな落ち込んでいる選手、調子に乗っている選手を一人ひとり呼んで話していたらしいのです。選手にも仰木時代を懐かしむ人は多いですね。オリックスの監督がたくさんいた中で、私はやっぱり一番センチメント(感傷)を感じるのは仰木監督です」と述べている。 選手のフォームを尊重して、そのまま才能を伸ばす育成法で知られる。
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