浮世絵における「歴史画」
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浮世絵における歴史画とは、歴史上の出来事、あるいは物語に題材をとったものを指す。また、物語の作者と同じ時代の事件を扱った事件画といわれるものも含まれる。 江戸時代は日本国全体が閉鎖されていたのみでなく、各藩ごとに一種の閉鎖社会を形作っていた。そして、浮世絵を作り、またそれを楽しむ層の人々はさらに周囲が狭かった。社会意識は薄く、自分の手近なところのみであった。後期になると、漸く物産の流通、街道の整備と庶民の交流交通も多くなって、国内的にはかなり社会の視野は広くなったとはいえ、社会の階層は動かず、民間の報道は厳禁、流言を流すとして処罰され、政治は全く「おかみ」のことに属していた。それも幕末に外国船が頻繁に渡来してくるに連れ、自国以外の存在や動きも漸く感じ始めるようになった。浮世絵の描く世界が町人社会と遊里の社会くらいであった時代は既に遠く、当然、浮世絵にも当代の世相が反映され、それらへの視野から表現欲も湧いてくる。こうした四囲の動きと自覚、また情報を得たいという自然な願いがしばしば歴史画に仮託されて描かれている。鎌倉時代の富士の巻狩りを描いても、実は外国船打払いの防備や訓練を諷刺するといったものや、江戸幕府や将軍大奥のことなども妖怪を借りて示すといったすり替え、諷刺が描かれた。しかし、ストレートに一揆や政変政争を描くには開国、あるいは明治維新を待たねばならなかった。もし、諷刺という抜け道を通るのではなく、出版にいちいちチェックを受けるのでもなかったら、殆ど底知れずに貪欲な浮世絵はもっともっと広くヴィヴィットな社会的題材を示したと思われる。 一方、歌舞伎においても近世の歴史に取材した劇化が禁止されていた。批判はもとより、そうでなくても当代に触れるのはご法度であったから、台本は常に古い時代に仮託して上演しなければならなかった。これが、そのまま錦絵になる状態であったから、坂田金時のような伝説物以外では、歴史画が描かれることは少なかった。例えば、豊臣秀吉のことを描いても、その残党を刺激し、ついては現政権に関わるとしてご法度になった。喜多川歌麿らが処罰されたのも、これに関連していた。そのため、ともかく歴史は避ける方が賢明であったが、幕末に向かうに連れ、源平時代に時代を変えて外国船渡来騒ぎを描いたりしている。『三国志』、『水滸伝』、『西遊記』のように翻訳物なら差し支えないとして、日本物は避け、唐土の関係の物はしばしば登場した。そういう中で、歌川国芳は歴史伝説、さらに時代諷刺にも積極的な方であったし、近世の宮本武蔵を取り上げて鯨退治の奔放なイメージを広げたりしている。 実際の史実が錦絵化されるのは、明治維新後といってよい。勝てば官軍であるから戊辰戦争が描かれるし、西南戦争では大礼服を着たまま前線で指揮を執る西郷隆盛といった荒唐無稽、大時代的な錦絵も現れた。こうした想像で浮世絵師が描いたのも、未だ速報的な手段方法がなかったためで、日清戦争の錦絵がそのピークであろうと思われる。ただ、日清戦争絵には軍艦同士の海戦や兵器など近代戦の様相が表現されてくる。小林清親の安城攻撃図で見られるサーチライトを照らしての砲撃などはその例の一つであった。しかし、現実の戦争を描くとなれば正確、迅速、写実が自ずから求められてくるものである。既に西洋画の技法を身につけていた浅井忠の従軍活動もあり、さらに写真の出現によって、次の日露戦争の時には、以前のピークは戻ってこなかった。 このように、正確な歴史画はなかなか育たなかったが、市井の人々は故事伝説的なものには大いに関心があって、浮世絵師にも大蘇芳年のような詳しい人も存在した。故事的な錦絵は幕末になってからではなく、浮世絵の初期からあり、今となってはなかなか解き難いものもあるようである。菱川師宣の「大江山酒呑童子」18枚シリーズ、あるいは一方から見ると母子像であるが、歌麿の「山姥」シリーズなども歴史画といえるかもしれない。 この項の参考文献 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年
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