横綱一覧
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「北海道出身の横綱一覧」の記事における「横綱一覧」の解説
千代の山雅信 松前郡福島町出身。 第41代横綱。1951年5月場所後昇進、1959年1月場所引退。幕内最高優勝6回、全勝2回。 初の道産子横綱。終戦直後の1945年11月場所で10戦全勝の衝撃的デビューを果たす。「鉄骨のやぐら」と呼ばれた筋肉質の長身から破壊力ある突っ張りと右四つの相撲でならした。戦後角界の旗手として期待を集め期待通り横綱に昇進したが相次ぐ故障で大成できず、「横綱返上」騒動を起こしたこともある。横綱審議委員会が推薦・相撲協会推挙による初の横綱でもある。 吉葉山潤之輔 厚田郡厚田村出身。 第43代横綱。1954年1月場所後昇進、1958年1月場所引退。幕内最高優勝1回、全勝1回。 市川右太衛門に似た美男と筋骨隆々とした肉体で人気を集めた。力士として伸び盛りだったころに兵役にとられ、さらに戦地で負傷し、体重も減少して出世の足かせとなった。横綱昇進までの苦難の数々は「7つの悲運」と呼ばれたが1954年1月場所で生涯ただ一度の優勝を全勝で果たし、雪中の都内をパレードする姿は全国的な熱狂を呼んだ。横綱昇進後は優勝なしのまま引退。 大鵬幸喜 川上郡弟子屈町出身。 第48代横綱。1961年9月場所後昇進、1971年5月場所引退。幕内最高優勝32回、全勝8回。 出生地は樺太(当時日本領)である。当時の年少昇進記録を次々と塗り替え、入幕からわずか2年、21歳3か月で横綱昇進。同時に横綱に昇進した柏戸と共に「栃若時代」に続く「柏鵬時代」を築いた。特に女性・子供からの人気が高く「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語が生まれた。抜群の安定感を誇り、優勝30回を記念して相撲協会から一代年寄を贈られた。慈善活動に力を注いだことでも知られる。前相撲博物館館長。2013年1月の他界後に国民栄誉賞を贈られた。 北の富士勝昭 旭川市出身。 第52代横綱。1970年1月場所後昇進、1974年7月場所引退。幕内最高優勝10回、全勝3回。 「現代っ子横綱」「プレイボーイ横綱」などの異名をもつ美男力士。鮮やかな速攻が身上だった。大鵬晩年期に横綱となり、ライバル玉の海とともに優勝を重ね「北玉時代」到来と思われた矢先に親友でもあった玉の海が急逝、以後8場所間一人横綱を務めたが成績は急降下した。引退後は千代の富士・北勝海を横綱まで育て上げた。現在は相撲協会を離れ、NHKの専属相撲解説者。 北の湖敏満 有珠郡壮瞥町出身。 第55代横綱。1974年7月場所後昇進、1985年1月場所引退。幕内最高優勝24回、全勝7回。 「怪童」と呼ばれ年少記録を次々に更新、横綱昇進時の年齢21歳2ヶ月は現在も大相撲記録。横綱昇進直後は取りこぼしも目立ったが、やがて巨体を利した破壊力と巨体に似合わぬ機敏さを武器に安定した強さを兼ね備え、37場所連続二ケタ勝利などを記録した。同時期に輪島・貴ノ花ら人気力士が多く、もっぱら彼らの敵役にされたが、誠実な土俵態度で横綱を63場所務めた。大鵬に次いで一代年寄を贈られ、日本相撲協会理事長を務めたが、理事長在任中に逝去した。 千代の富士貢 松前郡福島町出身。 第58代横綱。1981年7月場所後昇進、1991年5月場所後引退。幕内最高優勝31回、全勝7回。 同郷の先輩・千代の山にスカウトされて角界入り。精悍な顔立ちと筋肉美で高い人気を集め、80年代の相撲界を人気・実力双方で支えた、戦後屈指の人気力士。力任せの投げで肩を故障し続けたが前褌をとっての速攻に開眼、関脇での初優勝から横綱まで駆け上がり、空前の「ウルフフィーバー」を現出した。双葉山につぐ記録となる53連勝を記録、相撲界初の通算1000勝を達成、これも相撲界初となる国民栄誉賞を受賞した。 北勝海信芳 広尾郡広尾町出身。 第61代横綱。1987年5月場所後昇進、1992年3月場所引退。幕内最高優勝8回。 素質には恵まれなかったが兄弟子千代の富士との激しい稽古と闘志でカバー、激しい相撲で小錦らと「花のサンパチ組」とうたわれる。昇進後は腰や膝の故障に悩まされるがそのたび復活を遂げ優勝回数を8回まで積み上げた。日本相撲協会理事長在任中に逝去した北の湖の後を受けて、理事長に就任した。 大乃国康 河西郡芽室町出身。 第62代横綱。1987年9月場所後昇進、1991年7月場所引退。幕内最高優勝2回、全勝1回。 常陸山のようと喩えられた恵まれた巨体で早くから将来を嘱望され、期待通り横綱にまで駆け上がったが、睡眠時無呼吸症候群などその巨体からくる病苦に悩んで低迷、安藝ノ海以来となる本場所皆勤での負け越しを記録してしまった。それでも1988年11月場所千秋楽、千代の富士の連勝を53で止め綱の意地を見せた。
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鏡里喜代治 三戸郡斗川村出身。 第42代横綱。1953年1月場所後昇進、1958年1月場所引退。幕内最高優勝4回。 初の青森県出身の横綱。1949年10月場所には、東冨士ら2横綱から金星をもぎ取り、史上初の三賞同時複数受賞力士となった。その後、大関となり常に2ケタの白星で安定、6場所目の優勝で横綱に昇進した。横綱としての3度の優勝はあったが、優勝した場所以外の成績は振るわず、1958年1月場所で『10番勝てなければやめる』と発言し9勝6敗に終わり、言葉通り引退した。 初代若乃花幹士 弘前市出身。 第45代横綱。1958年1月場所後昇進、1962年5月場所引退。幕内最高優勝10回、全勝1回。 107kgという軽量力士ながら下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり『異能力士』『土俵の鬼』とまで呼ばれ、特によきライバルである栃錦との取組では水入りなど常に大熱戦でいわゆる『栃若時代』を築き、相撲人気を一気に高めた。引退後は、後述の2代若乃花と隆の里を共に横綱まで育て上げ、日本相撲協会理事長も務めている。 栃ノ海晃嘉 南津軽郡光田寺村出身。 第49代横綱。1964年1月場所後昇進、1966年11月場所引退。幕内最高優勝3回。 初土俵後、順調に関脇まで昇進し、1962年5月場所で初優勝し大関に昇進した。その後も勝ち越しを続け横綱となり、2場所目で優勝したが、その後椎間板ヘルニアを発症して坐骨神経痛となり、さらには右腕筋肉の断裂というけがに見舞われ、横綱昇進後の成績は振るわず、当時の横綱では最も若い28歳8か月での引退となった。 2代若乃花幹士 南津軽郡大鰐町出身。 第56代横綱。1978年5月場所後昇進、1983年1月場所引退。幕内最高優勝4回、全勝1回。 蔵間と共に美男子として人気を集めた。けがで出世は遅れたが、それでも順調に出世し大関に昇進。強さと共に人気も上がりCM出演や歌手デビューも果たす。当時は北の湖、輪島の全盛期ながら活躍し2場所連続で優勝同点で横綱に昇進した。横綱として3度優勝するなど活躍したが、肝臓病や頸椎捻挫、痔などで休場が続き引退した。 隆の里俊英 南津軽郡浪岡町出身。 第59代横綱。1983年7月場所後昇進、1986年1月場所引退。幕内最高優勝4回、全勝2回。 入幕当初は幕下時代に患った糖尿病で不振が続いて幕内に定着できず苦しんだ。しかしそこから力をつけ、糖尿病も快方に向かって、スロー出世で大関に昇進。4場所目で初優勝し、さらに1度の優勝で横綱昇進を果たした。時間をかけて横綱に上り詰めた姿から、当時の人気ドラマ『おしん』(NHK連続テレビ小説)になぞらえ『おしん横綱』と呼ばれた。新横綱の場所で15戦全勝優勝を飾ったのは今でも隆の里ただひとりである。なお、2代若乃花とは同期入門である。 旭富士正也 西津軽郡木造町出身。 第63代横綱。1990年7月場所後昇進、1992年1月場所後引退。幕内最高優勝4回。 初土俵から2年で入幕を果たし、当時から将来の大関候補と期待されていたが、膵臓炎を発症して一時期低迷。それでも、地力をつけ大関に昇進。2場所目で初優勝を果たす。新大関の場所から10場所連続11勝以上を挙げたが、幾度も横綱昇進を見送られ、さらに膵臓炎の再発もあって再度低迷する。だが2場所連続優勝を飾って平成に改元してから初の横綱に昇進した。しかし、三たび膵臓炎を再発し、結局横綱在位9場所での引退となった。
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