横綱免許の権威として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/28 10:23 UTC 版)
1877年(明治10年)、西南戦争において23世吉田善門は西郷隆盛率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが1882年(明治15年)7月、東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎 (初代)に横綱免許状を授与した。その反面、京都の五条家による横綱免許も続いていたが、これも明治末期を境にしてなくなり、以降戦後に至るまで歴代の横綱は吉田司家のみによって授与されていくこととなる。 明治維新の中で相撲廃止論が起こったとき、23世吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。そして1908年(明治41年)5月、九段靖国神社の拝殿に相撲協会年寄、幕内、十両以上の力士、並びに足袋免許(「足袋格」すなわち十両格行司)以上の総参集を求め奮起の一喝を与え、1909年(明治42年)6月の両国国技館の新設に向かったのである。そして1925年(大正14年)8月相撲協会取締出羽海梶之助から財団法人化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の外部から招くよう助言し、同年12月文部大臣岡田良平から財団法人の認証を受けた。会長には帝国陸軍大将福田雅太郎、理事長には元陸軍主計中将広瀬正徳が就任した。 一方、大坂相撲には長らく立行司免許のみを発行し横綱免許は発行していなかったが明治に入り若嶌權四郎に横綱免許を発行、大木戸森右エ門の際には大阪協会が司家に無断で横綱免許状を作成したことで1度は大坂を破門するも後に和解成立により追認、これに大錦大五郎と宮城山福松を加えた4人の吉田司家の免許を持つ公認横綱が登場した。 第40代横綱東富士欽壹までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった細川家の東京・小石川の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、1950年(昭和25年)1月場所における東冨士、照國、羽黒山の3横綱の途中休場による騒動を契機に横綱審議委員会が発足すると、大日本相撲協会は吉田司家から独立した横綱の推挙の動きを強めていき、その最中に24世吉田長善が自身の金銭面の不祥事に端を発する家内の内紛により、『一身上の都合』を理由に1951年(昭和26年)11月に引退を余儀なくされる。25世吉田追風は当時7歳の長孝が継ぐ事となったが、日本相撲協会は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱千代の山雅信以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。しかし三役格以上の行司は引き続き熊本市の司家で行司免許を授けられてきた。
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