日本軍守備隊玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:31 UTC 版)
「ペリリューの戦い」の記事における「日本軍守備隊玉砕」の解説
ペリリュー島上陸と同日にマッカーサーが率いる南西太平洋方面軍の陸軍部隊がモロタイ島に上陸し、ニミッツの海軍主体の中部太平洋方面軍との間で張り合う格好だったが、モロタイ島攻略は米側死傷者44名と軽微な損害だけで簡単に終了した。海兵隊がペリリュー島から交代したころには、アメリカ軍のフィリピン攻略の中継地点にモロタイ島が利用されており、レイテ沖海戦が行われていて、日米の主要な戦場は既にフィリピンに移っていた。アメリカ海軍のマッカーサーへの対抗上からも、また海兵隊のアメリカ軍部内での存在意義を示す(つまり「敵前強行上陸を行って前進根拠地を確保する戦力である」と証明する)意味からも、早期攻略がなし得なかったことでアメリカ軍にとってのペリリュー攻略は、もう戦略的価値はなくなっていた。 井上はペリリュー島の支援を諦めておらず、漁師など水泳が達者なもので編成した海上遊撃隊の出撃の機会をうかがっていた。海上遊撃隊はパラオへのアメリカ軍の進攻の懸念が高まった1944年7月に編成されて、隊員が泳いで敵艦に近づき、爆薬をしかけて撃沈するという任務を命じられており、歩兵第59連隊の君島文夫少尉ら3名の少尉が指揮官に任じられて第14師団直轄となり、参謀長の多田から攻撃方法の研究をするように命じられ、コロール島で攻撃法の研究と訓練を繰り返していた。その後出撃機会に恵まれないなかで一旦は解隊されたが、井上はペリリュー島支援のため、11月2日に海上遊撃隊の再編制を命じ、より規模を拡大して、指揮官を小久保荘三郎少佐として、第15連隊田村竹男大尉率いる第1海上遊撃隊150名と、歩兵第59連隊の柳沢巳末男中尉率いる第2海上遊撃隊150名の2隊合計300名となった。田村隊はマカラカル島、柳沢隊はウルクターブル島に配置し、戦術も敵艦への破壊工作から、敵艦や敵基地に乗り込んで急襲するといった日本軍得意の斬り込み夜襲戦法に変更された。 準備が整ったところで小久保は早速、第2海上遊撃隊にガラコン島(現ゲロン島)の攻撃を命じた。攻撃を命じられたのは、以前ガラコン島に配置されていたこともあった高垣勘二少尉と9名の兵士であったが、高垣らは9月にガラコン島から本隊のいるペリリュー島に合流せよと命じられながらも、既にペリリュー島はアメリカ軍艦艇に包囲されており合流を断念、またガラコン島にもアメリカ軍の侵攻の懸念が高まったことから、わずか1個小隊では防衛は不可能と判断した高垣が独断でパラオ本島に撤退したという経緯があった。その後、ガラコン島はアメリカ軍に占領されて、師団司令部は高垣の独断撤退を「敵前逃亡」と見なして激怒したが、軍法会議にかけることなく汚名返上の意味を込めて、無断撤退したガラコン島の攻撃を命じたものであった。11月8日深夜、高垣隊は筏を漕いでガラコン島に上陸、島には中隊規模のアメリカ軍が駐留していたが、わずか9名の高垣隊は夜襲に成功し、アメリカ兵が就寝中の兵舎を襲撃して9名のアメリカ兵を殺傷、野砲や探照灯といった物資を多数撃破、また武器も鹵獲すると3名の戦死者を出しながら高垣と6名の将兵は無事にウルクターブル島に帰還した。高垣隊はこの活躍で天皇からご嘉賞を下賜された。この海上遊撃隊による攻撃は終戦直前の1945年6月まで継続的に行われて、アメリカ軍に大損害を与えている。 11月15日にパラオ本島の第14師団司令部から中川に、天皇から11回目のご嘉賞の言葉があったことが伝えられたが、これは日本陸軍史上で前例のないことであった。東京の大本営においても、この頃は「まだペリリューはがんばっているか」が朝の挨拶代わりになっていたという。副官の根本は「もう天皇に対する忠誠は尽くした」として最後の突撃を中川に進言したが、中川はそれでも「最後まで務めは果たさなければならない」として、引き続き持久戦を指示した。11月22日にはアメリカ軍が陣地前数百mまで迫ってきており、中川は最後が近づいたと考えて第14師団司令部に下記の電文を発信した。 通信断絶ノ顧慮大トナルヲ以テ最後ノ電報ハ左記ノ如ク致シ度承知相成度 左記一 軍旗ヲ完全ニ処置シ奉レリ二 機秘密書類ハ異常ナク処理セリ 右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度 11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、アメリカ軍が司令部壕から10数mまで迫ると、司令部は玉砕を決定、中川は第14師団に「1、敵ハ22日来ワガ主陣地中枢ニ侵入、昨23日各陣地ニオイテ戦闘シツツアリ本24日以降特ニ状況切迫陣地保持ハ困難ニ至ル」から始まり「4、将兵一同聖寿ノ万歳三唱皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル 集団ノマスマスノ発展ヲ祈ル」「5、歩2電171号中ゴ嘉尚ヲ11回ト訂正サレタシ」で締めた決別の電報を発信させた。 中川はわずかに生き残った将兵を集めると「根本大尉の指示で各個の遊撃戦を継続するよう」という訓示を行い、司令部地下壕内で第14師団派遣参謀村井権治郎少将と、逆上陸して最後まで中川と行動を共にした歩兵第15連隊第2大隊長の飯田の3人で自決を遂げた。司令部の通信隊員久野馨伍長は、中川らが自決に向かうのを見て、通信電源の中途断絶も覚悟して最後の電文を打電した。 サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ ワレクノゴチヨウ この電文を受信した第14師団通信隊無線分隊伊藤敬人分隊長以下の分隊員たちは、11月22日の「右ノ場合「サクラ」ヲ連送スル」という電文から、この「サクラサクラサクラ」がペリリュー守備隊最後の打電だと認識して、抱き合って泣いたという。残された根本は、55名の残存兵力を率いてアメリカ軍飛行場破壊を目的に夜襲をかけたが、殆ど徒手空拳でありアメリカ軍陣地を突破することはできず、11月27日には全員玉砕した。 こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなった。南カロリン諸島の司令官J・W・リーブス少将は「ペリリュー島で、予定を大幅に超過したものの、敵の組織的抵抗を崩壊させて、作戦を成功に導けたことに心からお祝い申し上げる。」と第81歩兵師団(ワイルド・キャット師団)に労いの言葉をかけたが、第1海兵師団リュパータス師団長の「激しいが短い、長くて4日」の作戦は結果として73日もかかったことになった。 戦闘終了後、ワイルド・キャット師団の兵士が、最後の最後まで激しく抵抗した日本軍の司令部壕に恐る恐る入ると、中川大佐と村井少将の遺体を発見した。二人の遺体は所持品により確認され、敬意をもって丁重に埋葬された。ワイルドキャット師団のペリリューの戦闘報告書には「日本軍守備隊は、祖国のために、全員忠実に戦死せり」と書かれた。 ペリリューから撤退した第1海兵師団はパヴヴ島で休養と再編成中であったがその中にはリュパータス師団長はいなかった。個人的に親しいヴァンデグリフト海兵隊総司令の配慮により海兵隊学校の校長に任命されアメリカ本土に帰還していた。実際は第一線の実戦部隊指揮官からの明らかな更迭で、リュパータスの軍歴の終わりを意味していたが、ヴァンデグリフトはかつての部下のプライドを慮り、ペリリュー島での労を労う意味合いで作戦功労勲章を授与した。しかし第1海兵師団の中でリュパータスの離任を嘆くものはほとんどいなかった。リュパータスはその後、ペリリューの回顧録を書く間もなく、後任の師団長に率いられた第1海兵師団が沖縄に向かっている途中の1945年3月26日に心臓発作で急死している。 ペリリュー守備隊の異例の奮闘に対して昭和天皇から嘉賞11度、上級司令部から感状3度が与えられ、中川は死後に2階級特進し陸軍中将となった。 司令部全滅後も他の陣地に籠っていた関口中尉以下50名がアメリカ軍の掃討作戦をかわし遊撃戦を展開した。1945年1月には関口中尉が戦死し、山口少尉を最高位として34名が生き残った。その34名はアメリカ軍の食糧貯蔵庫を襲撃し3年分の食糧を確保すると、奪取したU.S.M1カービンを使いやすいように改造して武装したり、アメリカ軍の軍装を洗濯工場から奪取して着用するなど、アメリカ軍から奪取した物資や手作りの生活用品を用いながら2年近く洞窟内で生きながらえたが、1947年4月22日に第四艦隊参謀長澄川道男少将の誘導により米軍に帰順した。この生き残りの34人は後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成している。最後の一人が2019年11月4日に亡くなった。
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