免疫理論の歴史
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免疫の概念は数千年の間人類の興味を引いていた。前史時代の病気に対する考えは、超自然的な力が原因で、神あるいは敵のそばで魂に尋ねてきた、悪い行いや悪魔の考えを神が罰する形が取られたものとされた。 ヒポクラテスと19世紀の間には科学的方法の基礎が作られ、病気は4つの気質(血、粘液(痰)、黄色胆汁、黒色胆汁)の1つが変化するかバランスが崩れることに帰せられた。 この期間に人気があったのは瘴気論である。コレラや黒死病は"悪い空気"の有毒な形である瘴気によって起こるとされた。 誰でも瘴気に接触すると病気に罹った。 近代的な言葉「免疫」immunityはラテン語のimmunisに由来する。兵役サービス、納税、あるいは他の公共へのサービスからの免除を意味している。 書いた記録に「免疫」概念が最初に現れるのは、アテネのトゥキディデスによってBC430年に書かれたものである。彼は「病人や死にそうな人は病気から回復した人々によって手厚く看護された。なぜなら彼らは病気の経過が分かっており彼ら自身はもう心配はなかったから。そして以前病気に罹ったものは2回は罹らず死ぬことはない」と記した。 免疫(immunes)なる言葉がBC60年頃詩人マルクス・アンナエウス・ルカヌスによって詠まれた叙事詩『ファルサリア』中にも見受けられる。彼は北アフリカ部族の蛇毒抵抗性を描写した。 特定の病気の病原体によって引き起こされる免疫(immunity)についての記述が最初に臨床的な視点でなされたのは、おそらくイスラムの医者アル・ラーズィーによって書かれた『Kitab fi al-jadari wa-al-hasbah』(天然痘および麻疹についての論文、翻訳1848年)であるだろう。論文中彼は天然痘と麻疹の臨床描写を行い、これらの特定の病気を起こすものに接触すると長続きする免疫immunityがつくことを示した(彼は免疫immunityと言う言葉を使わなかったのだが)。 しかし誕生後間もない科学である免疫学が、いかに細菌が病気を起こすか、そして感染後いかに人の体がさらに障害を受けないよう抵抗力を獲得するのかの説明を始めるまで、ルイ・パスツールによる病気の病原体説まで待たねばならなかった。 受動免疫による治療はポントスのミトリダテス6世に始まるだろう。彼は毒に対して、自身を強固にしたいと思い、抵抗力を付けるために毎日致死量以下の毒を飲んだ。ミトリダテスは地球上のあらゆる毒から身を守るために宇宙の解毒者になるとも言った。 約2,000年近くの間毒は病気の原因に最も近いものと考えられ、ルネサンス時代は様々な物質の複雑な混合物、これはミトリデイトと呼ばれたが、それが中毒の治癒に用いられた。 この治療法の改良版は『Theriacum Andromachi』で、19世紀までよく用いられた。 1888年エミリー・ルーとアレキサンドル・イェルサンはジフテリア菌毒素を単離した。そして1890年ベーリングと北里によってジフテリアと破傷風に対する免疫に基づいて抗毒素が発見された後、抗毒素が近代治療免疫学の主要で最初の成功となった。 ヨーロッパでは能動免疫の導入が始められ、その試みに天然痘が含まれていた。しかしながら免疫処置は少なくとも千年の間様々な形で存在していた。 免疫処置を最初に用いたのは知られていないが、AD1,000年頃であり、中国人は天然痘のかさぶたで作られた粉末を乾かし吸い込むというような免疫処置の形となるものを実際に行い始めていた。 15世紀頃のインドとオスマン帝国と東アフリカで、(天然痘のかさぶたの粒から作った粉末を用いて皮膚を突くことによって)あばたを作ることはごく普通のことになっていた。 このあばた作りは18世紀初めメアリー・ウォートレー・モンターギュ嬢によって西洋に紹介された。 1796年エドワード・ジェンナーは死んでいないウイルスだが天然痘に対する免疫を誘導する牛痘を用いたより安全な接種法を導入した。ジェンナーの取ったやり方の成功とそれが一般的に認められたことは、その後19世紀終わりにワクチン接種の性質の一般性がパスツールによって導き出され発展したことへつながった。
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