作品と思想とは? わかりやすく解説

作品と思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 09:30 UTC 版)

中林忠良」の記事における「作品と思想」の解説

現代日本銅版画新たな一面開いたといわれる中林は、その出発点雪深い新潟過ごした子供時代に置く。その疎開体験を「自然の光と影しかない風景となじめない学校暮らしの中で雪の世界にだけ親しいものを感じていた」と回顧する。「7歳から14歳までの4年間、自然を友として過ごした雪国での疎開体験が、僕の表現根っことその画質形作った」「人より、自然の方に親和感をもつようになった」と語っている。 銅版画との出会いは、芸大3年1961年秋。駒井哲郎集中講義出席し駒井作品実際に刷る姿に感動初め自分作品作る。また特異な画家ヴォルス作品出会ったこともきっかけとなり、「油絵教室抜け出して版画制作していた」という。当時中林は「油絵の具ヌルヌルした感じが身にそわなくて、描けば描くほど作品自分から遠ざかるようで、そんなときに銅版出会って、もうコレだ!と」と駒井授業との出会い衝撃語っている。 大学助手として、大学紛争時期体験。「群れと個」という問題意識に立ち「孤独な祭り」(1970年)でその終結作品化し、その後白い部屋」(1971年)「二律背反される風景」(1972年)「囚われる部屋」(1973年)「囚われる日々」(1974年)にも受け継がれて行く。「自分社会仲間自分にむけてメッセージ投げかけて」『閉塞的な情況風景として表していた」と振り返る。 これらの思いは、オリジナル版画集「剥離される日々」(1973年 詩・岡田隆彦)、「大腐爛頌」(1975年 詩・金子光晴)、「覇王七日」(1977年 小説中上健次)の制作にもつながっていった。その、金子の「大腐爛頌」ーすべて腐らないものはない!」という言葉が「自分考えていた事とピタリ一致した」という。1975年から1976年にかけ、文部省在外研究員として外遊し、帰国直後恩師駒井哲郎死去で、後の「転位シリーズにつながる「師・駒井哲郎捧ぐ」を制作。「ぞれまでは状況の中で自分はどうあるべきかを絶え考えていたが、もっと基本的なことがあるではないか。それらをさっぱり捨てて残ったのが物質そのものだった」として、1977年から「Positionシリーズ制作1979年からの「Trans・position」「転位シリーズ繋がって行く。 「はじめは社会環境への自身浮遊感埋めるべく、足元の〈地〉を見直すという仕事であったが、しだいに白と黒代表される二律背反拮抗調和を、腐蝕銅版画の工程技法(しくみ)にからめて描くようにもなった。75年出会った金子光晴の詩片『すべて腐らないものはない』で顕わになった世界観が、その背景にある」。 そして、その心境として「気の遠くなるほどの長い年月をかけて大地浸食して行く自然界作用を、自分掌の中縮めてわずか数十分でイメージ画像化くわだてる、それが自分銅版画仕事なのだと考えようになった」と語っている。

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作品と思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:48 UTC 版)

ナギーブ・マフフーズ」の記事における「作品と思想」の解説

マフフーズは70年越え作家人生の中で、34編の長編小説350編以上の短編小説、無数の映画脚本、5本の舞台脚本書いたが、最もよく知られる作品は、1919年革命から1952年革命まで3世代にわたるカイロ人の一家物語描いたカイロ三部作英語版)」であろう。タウフィーク・エル=ハキーム英語版とともに実存主義という文学的テーマ追求する現代アラビア語文学第1世代のひとりとみなされている。マフフーズは出版社ダール・エル=マアーレフ(Dar el-Ma'aref)の役員務めていた。その小説多く日刊紙『アハラーム』に連載され、「視点」という題の週間連載コラムもあった。ノーベル賞受賞以前は、2,3編の小説西側諸国知られているのみであった。 マフフーズの散文は、朴訥物言い特徴である。扱うテーマ幅広いが、社会主義同性愛、神をテーマにした文章エジプトにおいて出版禁じられてしまった。マフフーズは、20世紀におけるエジプト発展を描く一方で東洋と西洋双方からエジプトもたらされ知的文化的影響繋ぎ合わせる彼の作品見られるエジプト文化の要素は、若い頃熱中した西洋探偵小説や、19世紀ロシア古典から始まりプルーストカフカジョイスといった現代作家にまで及ぶ。マフフーズ小説筋書きはほとんどの場合人口稠密なカイロ街角で、市井の人々社会近代化西洋的価値観誘惑対応しようともがくというストーリーである。長編『バイナル・カスライン』をはじめ、出身地であるカイロ旧市街舞台にした作品多く伝統近代化の間に翻弄される庶民の姿などを描き、「エジプトバルザック」とも例えられた。 また、宗教的な寛容節度主張していた。民主化などで政府注文もつける一方イスラム原理主義にも批判的な立場取った。マフフーズの著作多く政治扱っており、そのこと作家自身自覚している。「私の書くものは全部政治見出せるだろう。愛とか、その他の主題そっちのけにして政治のことを書いている話だと思うかもしれない。しかし政治私たち思想重要な枢軸なのだよ。」とマフフーズは語った。 マフフーズがエジプトナショナリズム英語版アラビア語版)の信奉者であり、ワフド党シンパであることは多数著作から読み取れる若い頃には社会主義民主主義理想に心惹かれていたこともあった。社会主義的理想主義影響は、処女作第二作目小説顕著である。また、晩年にも、これら理想主義回帰した。社会主義民主主義への共感相応して、マフフーズはイスラーム過激派反発した作家若い頃から、個人的にサイイド・クトゥブ知っていた。クトゥブは原理主義傾倒する以前文芸批評大きな興味示していた。後年ムスリム同胞団多大な影響を及ぼすことになるクトゥブであるが、マフフーズの才能1940年代半ば最初に認識した批評家一人でもあった。マフフーズはクトゥブが刑死する少し前1960年代病院にいるクトゥブのところへ見舞い行ったこともある。その一方で、半自伝的小説『鏡』の中ではクトゥブを非常にネガティヴ描いている。マフフーズは1952年エジプト革命原動力となった思想には共鳴したけれども、その思想実践中途半端に終わった結果には失望した1967年の「六日間戦争」(第三次中東戦争)におけるエジプト軍敗北にも失望した。マフフーズはナビール・ムニール・ハビーブやリダー・アスラーンのようなエジプト新世代法律家影響与えている。 1978年サーダートキャンプ・デイヴィッドイスラエル結んだ和議に対して、マフフーズは公然と支持表明した。マフフーズは社会に対して、いつも、寛容中庸呼びかけていた。マフフーズへの反発大きく多くアラブ諸国作品へのボイコット広まった。この状況10年近く続き、マフフーズのノーベル賞受賞でようやく変化した。マフフーズは作品外側起きた論争萎縮することはなかったが、エジプト文筆家知識人多くがそうであるようにマフフーズも、イスラーム原理主義者の「殺害すべき者リスト」にリストアップされた。

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