作品と思想
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「現代日本の銅版画に新たな一面を開いた」といわれる中林は、その出発点を雪深い新潟で過ごした子供時代に置く。その疎開体験を「自然の光と影しかない風景となじめない学校や暮らしの中で雪の世界にだけ親しいものを感じていた」と回顧する。「7歳から14歳までの4年間、自然を友として過ごした雪国での疎開の体験が、僕の表現の根っことその画質を形作った」「人より、自然の方に親和感をもつようになった」と語っている。 銅版画との出会いは、芸大3年の1961年秋。駒井哲郎の集中講義に出席し、駒井の作品、実際に刷る姿に感動。初めて自分も作品を作る。また特異な画家ヴォルスの作品に出会ったこともきっかけとなり、「油絵の教室を抜け出して版画を制作していた」という。当時、中林は「油絵の具のヌルヌルした感じが身にそわなくて、描けば描くほど作品が自分から遠ざかるようで、そんなときに銅版と出会って、もうコレだ!と」と駒井の授業との出会いの衝撃を語っている。 大学の助手として、大学紛争の時期を体験。「群れと個」という問題意識に立ち「孤独な祭り」(1970年)でその終結を作品化し、その後「白い部屋」(1971年)「二律背反される風景」(1972年)「囚われる部屋」(1973年)「囚われる日々」(1974年)にも受け継がれて行く。「自分が社会や仲間、自分にむけてメッセージを投げかけて」『閉塞的な情況を風景として表していた」と振り返る。 これらの思いは、オリジナル版画集「剥離される日々」(1973年 詩・岡田隆彦)、「大腐爛頌」(1975年 詩・金子光晴)、「覇王の七日」(1977年 小説・中上健次)の制作にもつながっていった。その、金子の「大腐爛頌」ーすべて腐らないものはない!」という言葉が「自分が考えていた事とピタリと一致した」という。1975年から1976年にかけ、文部省の在外研究員として外遊し、帰国直後、恩師・駒井哲郎の死去で、後の「転位」シリーズにつながる「師・駒井哲郎に捧ぐ」を制作。「ぞれまでは状況の中で自分はどうあるべきかを絶えず考えていたが、もっと基本的なことがあるのではないか。それらをさっぱり捨てて、残ったのが物質そのものだった」として、1977年から「Position」シリーズを制作。1979年からの「Trans・position」「転位」シリーズに繋がって行く。 「はじめは社会や環境への自身の浮遊感を埋めるべく、足元の〈地〉を見直すという仕事であったが、しだいに白と黒に代表される二律背反の拮抗と調和を、腐蝕銅版画の工程・技法(しくみ)にからめて描くようにもなった。75年に出会った金子光晴の詩片『すべて腐らないものはない』で顕わになった世界観が、その背景にある」。 そして、その心境として「気の遠くなるほどの長い年月をかけて大地を浸食して行く自然界の作用を、自分の掌の中に縮めてわずか数十分でイメージの画像化をくわだてる、それが自分の銅版画の仕事なのだと考えるようになった」と語っている。
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作品と思想
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「ナギーブ・マフフーズ」の記事における「作品と思想」の解説
マフフーズは70年を越える作家人生の中で、34編の長編小説、350編以上の短編小説、無数の映画脚本、5本の舞台脚本を書いたが、最もよく知られる作品は、1919年の革命から1952年の革命まで、3世代にわたるカイロ人の一家の物語を描いた「カイロ三部作(英語版)」であろう。タウフィーク・エル=ハキーム(英語版)とともに、実存主義という文学的テーマを追求する現代アラビア語文学の第1世代のひとりとみなされている。マフフーズは出版社ダール・エル=マアーレフ(Dar el-Ma'aref)の役員を務めていた。その小説の多くは日刊紙『アハラーム』に連載され、「視点」という題の週間連載コラムもあった。ノーベル賞受賞以前は、2,3編の小説が西側諸国に知られているのみであった。 マフフーズの散文は、朴訥な物言いが特徴である。扱うテーマは幅広いが、社会主義、同性愛、神をテーマにした文章はエジプトにおいて出版が禁じられてしまった。マフフーズは、20世紀におけるエジプトの発展を描く一方で、東洋と西洋の双方からエジプトにもたらされた知的文化的影響を繋ぎ合わせる。彼の作品に見られる非エジプト文化の要素は、若い頃に熱中した西洋の探偵小説や、19世紀ロシアの古典から始まり、プルースト、カフカ、ジョイスといった現代の作家にまで及ぶ。マフフーズ小説の筋書きはほとんどの場合、人口稠密なカイロの街角で、市井の人々が社会の近代化と西洋的価値観の誘惑に対応しようともがくというストーリーである。長編『バイナル・カスライン』をはじめ、出身地であるカイロの旧市街を舞台にした作品が多く、伝統と近代化の間に翻弄される庶民の姿などを描き、「エジプトのバルザック」とも例えられた。 また、宗教的な寛容と節度を主張していた。民主化などで政府に注文もつける一方、イスラム原理主義にも批判的な立場を取った。マフフーズの著作の多くは政治を扱っており、そのことは作家自身も自覚している。「私の書くものは全部に政治が見出せるだろう。愛とか、その他の主題をそっちのけにして政治のことを書いている話だと思うかもしれない。しかし政治は私たちの思想の重要な枢軸なのだよ。」とマフフーズは語った。 マフフーズがエジプト人ナショナリズム(英語版、アラビア語版)の信奉者であり、ワフド党のシンパであることは多数の著作から読み取れる。若い頃には社会主義や民主主義の理想に心惹かれていたこともあった。社会主義的理想主義の影響は、処女作と第二作目の小説に顕著である。また、晩年にも、これら理想主義に回帰した。社会主義と民主主義への共感に相応して、マフフーズはイスラーム過激派に反発した。 作家は若い頃から、個人的にサイイド・クトゥブを知っていた。クトゥブは原理主義に傾倒する以前は文芸批評に大きな興味を示していた。後年ムスリム同胞団に多大な影響を及ぼすことになるクトゥブであるが、マフフーズの才能を1940年代半ばに最初に認識した批評家の一人でもあった。マフフーズはクトゥブが刑死する少し前1960年代、病院にいるクトゥブのところへ見舞いに行ったこともある。その一方で、半自伝的小説『鏡』の中ではクトゥブを非常にネガティヴに描いている。マフフーズは1952年のエジプト革命の原動力となった思想には共鳴したけれども、その思想の実践が中途半端に終わった結果には失望した。1967年の「六日間戦争」(第三次中東戦争)におけるエジプト軍の敗北にも失望した。マフフーズはナビール・ムニール・ハビーブやリダー・アスラーンのようなエジプトの新世代の法律家に影響を与えている。 1978年にサーダートがキャンプ・デイヴィッドでイスラエルと結んだ和議に対して、マフフーズは公然と支持を表明した。マフフーズは社会に対して、いつも、寛容と中庸を呼びかけていた。マフフーズへの反発は大きく、多くのアラブ諸国で作品へのボイコットが広まった。この状況は10年近く続き、マフフーズのノーベル賞受賞でようやく変化した。マフフーズは作品の外側で起きた論争に萎縮することはなかったが、エジプトの文筆家や知識人の多くがそうであるようにマフフーズも、イスラーム原理主義者の「殺害すべき者リスト」にリストアップされた。
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