ノーベル賞受賞
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受賞後は本人の信念で、記者に意図的にへそ曲がりな応対を続けていた。取材記者に受賞の喜びのコメントを求められたが、「(受賞は)大してうれしくない」「36年前の過去の仕事ですから」「研究者仲間が理論を実験し、あれで正解だったよ、と言ってくれるのが一番うれしい」「我々は科学をやっているのであってノーベル賞を目標にやってきたのではない」「(ノーベル賞は)世俗的な物」など、受賞後にもかかわらず、研究者にとって純粋な学問の追究こそが目的であり、賞を得ることが目的ではない、という趣旨の発言も多く注目された。 同時に受賞した南部陽一郎を非常に尊敬しており、「南部先生に(ノーベル賞を)とっていただいたことが一番うれしい。アイデアマンで、我々に注意喚起してくれる。大変尊敬している」とコメントした。 繰り返す取材中には、笑顔で記者の前で万歳の格好をして「わー、と言って喜べば画になるんでしょうが」とおどけて見せた。その後に記者にとっては画になるが全然うれしくないという気持ちは変わらないと述べている。会見時に小林誠が記者に囲まれて困惑している様子を電話した際、「こっちも(記者が)いっぱいです。年貢を納めなきゃいけない」と応じた。 日本の科学教育の現状を記者団から聞かれ、「科学にロマンを持つことが非常に重要。あこがれを持っていれば勉強しやすいが、受験勉強で弱くなっている」「(若い人が物理学に興味を持ってもらえるようなメッセージをと聞かれ)我々の仕事が多少なりとも役に立てば光栄なこと」と返答している。
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ノーベル賞受賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:45 UTC 版)
「フリッツ・ハーバー」の記事における「ノーベル賞受賞」の解説
1918年11月に戦争は終結した。フリッツは、毒ガス開発のかどで戦争犯罪人のリストに載せられたといううわさが流れており、国際法廷において死刑の判決が下るだろうともいわれていた。そのためフリッツは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態にあった。1919年夏、フリッツは妻子を連れてスイスへと逃亡し、サンモリッツで暮らした。 2、3か月後には、自らが逮捕される可能性がないと分ったため、フリッツは同年ドイツに帰国し、研究所の再編に取り掛かった。そのさなか、ハーバー・ボッシュ法の業績に対するノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた。ただし当時、ドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判があった。竹内敬人は自著の中で、1912年にノーベル化学賞を受賞した後に、毒ガス作戦の指導者を務めたフランスの化学者ヴィクトル・グリニャールの例があったことも受賞に影響を与えたとしている。 フリッツはその後、研究所の再編と共に、研究者を集めて発表を行うことを目的とした、ハーバー・コロキウムを開催した。ここでは、「ヘリウム原子からノミにいたるまで」と謳われたように、化学、物理学から、生物に至るまで、幅広い領域を対象にした。このコロキウムは以後30年余りにわたって続いた。一方で自らの研究においても、1919年にマックス・ボルンと共同でボルン・ハーバーサイクルを提唱するなど、成果をあげ続けた。 1914年リービッヒ・メダル、1929年ヴィルヘルム・エクスナー・メダル、1932年ランフォード・メダル受賞。
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ノーベル賞受賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 00:24 UTC 版)
特に単著論文は無いが、スウェーデン王立科学アカデミーは受賞理由について「企業金融理論の権威であり、フランコ・モディリアーニと共に『モジリアニ=ミラー定理|モジリアーニ=ミラー定理(MM理論)』を導き出した事を評価した」と語っている。 なお、この年のノーベル経済学賞は3人(ハリー・マーコウィッツ、マートン・ミラー、ウィリアム・シャープ)が受賞した為、賞金の400万クローネは3等分されている。
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