郷田真隆 棋歴

郷田真隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 19:31 UTC 版)

棋歴

3歳の頃に、将棋好きな父から将棋を教わる[2]

小学校6年生だった1982年12月、奨励会に6級で入会するも、当初は成績不振で、一時は7級に降級した。しかしその後は順調に昇級を重ね、入会から2年半で初段昇段。1985年12月に二段に昇段するが、翌年に高校に入学すると「あまり将棋の勉強をしなかった」(本人談)ということで一時成績が低迷する。本人によればこの時期に初恋を経験するなど、プライベートでいろいろ出来事があったという[3]。三段リーグに入ったのは1988年。以来、次点(3位)、5位、5位と好成績を3期続け、ついに4期目に14勝4敗で2位の成績を収めて、19歳でプロデビュー(四段昇段)を果たす(1990年4月1日)。同学年の羽生善治が、すでに初の竜王位に就いていた頃のことであった。

プロ入り後

デビュー後は1年目の1990年度から活躍を見せる。第57期棋聖戦では破竹の勢いで勝ち上がり、本戦の決勝(=挑戦者決定戦)まで進出(決勝で森下卓に敗北)。年度の全成績でも40勝14敗と、大幅に勝ち越した。

1991年度は、本戦シードを得た第58期棋聖戦で再び本戦決勝まで勝ち上がるが、南芳一王将(当時)に敗北。第32期王位戦では王位リーグ入りを果たすと、4勝1敗で白組のプレーオフに進出した(当期挑戦者となる中田宏樹に敗北)。

プロ3年目の1992年度で遂にタイトルに挑戦する。3度の挑戦となったが、相手は全て谷川浩司であった(棋聖戦前期・後期、王位戦)。うち王位戦七番勝負(第33期)で谷川を4勝2敗で破り、初のタイトル獲得(1992年9月9日)。順位戦C級2組在籍・四段でのタイトル獲得は史上初であり唯一の四段でのタイトル獲得者(その後昇段規定が改正され、タイトル挑戦を決めた時点で昇段するため。なお、獲得した場合は同時に七段に昇段する)[4]。また、プロデビューから2年5か月での初タイトル奪取は、屋敷伸之に次ぎ歴代2位である。これらの成績により、本年度の将棋大賞の殊勲賞と新人賞を同時受賞。 第51期順位戦では、C級2組で9勝1敗の成績を収め、1位でC級1組への昇級を決めた。

1993-1995年度の王位戦は、羽生善治との3年連続同一カードとなったが、いずれも防衛・奪取はならなかった。

1993-1995年、日本シリーズで3連覇を達成。なお、この棋戦は、タイトル獲得者や順位戦の上位者などの一握りの棋士だけが参加できる棋戦であるが、王位失冠後の1994-1996年も、前回優勝者(第1シード)として出場資格が与えられた。

第43期王将戦では初の王将リーグ入りを果たすと、4勝2敗で残留に成功した。翌年度には5勝1敗でプレーオフに進出したが、羽生善治に敗れた。

1994年度は52勝19敗の成績で、将棋大賞の最多勝利賞と最多対局賞を初受賞。この年度では竜王戦で5組に昇級、新人王戦で準優勝(決勝で丸山忠久に連敗)等の成績も収めている。

1995年度は第54期順位戦のC級1組で8勝2敗となり、1位でB級2組へ昇級。第8期竜王戦では5組ランキング戦で準優勝し、4組に昇級。

1997年度の早指し将棋選手権戦で、決勝で羽生を破り優勝。長考派は早指しでも強いということを、前記の日本シリーズに続き実証した。同年度、第23期棋王戦で羽生に挑戦。1勝3敗で敗れる。この年度は、将棋大賞の記録4部門のうちの3つ(勝率1位賞・最多対局賞・最多勝利賞 = 48勝15敗、勝率0.762)と敢闘賞を受賞する。

1998年棋聖戦五番勝負で屋敷伸之を破り、棋聖位を奪取。翌年、谷川浩司に奪われる。

1999年4月、A級八段となる。しかし、初のA級順位戦(第58期 = 1999年度)では3勝6敗と8位の島朗八段と同成績ながら順位差で残留できず、1期でA級から陥落する。翌期のB級1組では次点で昇級を逃し[注 1]、さらに次のB級1組でA級に復帰。ところが、2度目のA級(第61期=2002年度)も、4勝5敗と健闘するも順位差で9位(A級棋士10人中5名が4勝5敗となる混戦)となり1期で降級し、翌期にB級1組で次点、その次でA級昇級(復帰)という、3年一組の、まったく同じパターンとなった。

第49回(1999年度)NHK杯戦で決勝進出するが、鈴木大介に敗れて準優勝。

2001年8月2日、棋聖戦五番勝負最終局で羽生を破り、棋聖に復位[5]。タイトル通算3期となり九段昇段した。棋聖位は、翌年、佐藤康光に奪われる[6]

3度目のA級順位戦(第64期 = 2005年度)で5勝4敗と勝ち越し、ようやくA級初残留をする[7]

2006年度A級順位戦で圧倒的な強さを見せ、8回戦(2007年2月1日)で勝利した時点で、最終9回戦を待たずして初の名人挑戦を決めた。対局終了の後、その日の朝に父が死去していたことを知らされる。「大事な一戦の最中に余計な心配をかけたくない」という家族の意向であった。森内俊之との第65期(2007年度)名人戦七番勝負は、3勝4敗で敗退[8]

同年度(2007年度)、第1回ネット将棋・最強戦において、決勝で丸山忠久九段を破り、初代王者に輝く[9]。後述にあるように、将棋の研究などにパソコンを利用することに否定的な郷田が、第1回の優勝者となったことは話題となった。

2008年度のA級順位戦を制し、2009年、自身2度目となる名人戦を羽生と戦う。2勝2敗で迎えた第5局は初の名人戦開催に沸く秋田市で行われたが、郷田は単独の旅程で宮城県に寄り、師匠の大友の墓参りをしてから秋田に向かった。この一局に勝ち、3勝2敗で名人獲得にあと1勝とした。しかし、残り2局を落とし敗退した[10]

2011年度、第37期棋王戦でトーナメントを勝ち上がり、本戦優勝者として挑戦者決定二番勝負に進出する。二番勝負の相手は本戦決勝でも戦った広瀬章人であった。郷田は第一局を落としたものの、第二局に勝利し、14年ぶりの棋王挑戦を決める。そして久保利明との五番勝負を3勝1敗で制し、初の棋王獲得[11]。2001年度以来10年ぶりにタイトル保持者となる。しかし翌年に渡辺明に敗れ、再び無冠に転落。

2012年度はNHK杯で2004年度以来となるベスト4入り。この年度が最後となった大和証券杯では、佐藤康光に敗れて準優勝(当該棋戦で優勝と準優勝を経験した棋士は郷田のみ)。

2013年度はNHK杯戦を勝ち上がり、決勝では丸山忠久を下して初優勝を飾った[12]。なおタイトル戦の挑戦者決定戦にも3度登場するという活躍も見せたが、こちらは全て敗退している[13]

2014年度、第64期王将戦の挑戦者決定リーグ戦で1位タイとなり、羽生との挑戦者決定戦を行い勝利、渡辺明王将への挑戦権を得る。七番勝負では第2局で頓死するなど2連敗スタートだったが、その後2連勝して追いつき、最終的に4勝3敗で制し初の王将位を獲得した。44歳での初王将は最年長記録である[14]

2015年度、第1期叡王戦において本戦Aブロックを勝ち上がり決勝三番勝負に進出したが、山崎隆之八段に0-2で破れ準優勝となった。第65期王将戦では挑戦者の羽生を4勝2敗で退けて自身初のタイトル防衛となった。しかし第74期順位戦A級では苦戦し、3勝6敗で降級となった。現役タイトルホルダーのA級陥落は第70期順位戦A級の久保利明二冠(当時)の陥落以来4期振りとなった。

2016年度、第66期王将戦では久保利明九段が挑戦者となった。七番勝負は4勝2敗で久保が制し、郷田は2期で王将位を明け渡すことになった[15]

2019年度には第90期棋聖戦で挑戦者決定戦に進出したが、渡辺明二冠に敗北し挑戦ならず。また、2021年度の第47期棋王戦でも挑戦者決定戦に進出したが、永瀬拓矢王座に敗れ挑戦権を逃した。

2022年度には、第81期順位戦B級1組で2勝10敗となり、B級2組に陥落となった。


注釈

  1. ^ このB級1組順位戦(第59期)では、郷田は終盤に2連敗、藤井猛竜王(当時)が2連勝したため、B級1組に昇級したばかりの藤井が大逆転で初のA級入りを果たした。
  2. ^ 奨励会入会の頃は風車戦法を多用していた。<『将棋世界』1997年7月号付録「全棋士出題 思い出の一手 PART2」、本人解説より>
  3. ^ ちなみに中原から棋聖のタイトルを奪取した経験のある屋敷伸之は、米長戦6勝4敗・中原戦10勝11敗。米長から名人のタイトルを奪取した経験のある羽生善治は米長戦16勝10敗・中原戦19勝10敗。
  4. ^ 日本将棋連盟の規定では、遅刻時間の3倍の時間を持ち時間から引き、それにより持ち時間が無くなった場合は不戦敗となる。

出典

  1. ^ 本校OB郷田九段が棋王奪取 - 駿台学園中学校・高等学校 2012年3月27日
  2. ^ 平成10年度版「将棋年鑑」(日本将棋連盟
  3. ^ 1985年の羽生世代 - 将棋ペンクラブログ・2014年7月30日
  4. ^ 昇段規定”. 日本将棋連盟. 2019年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月12日閲覧。
  5. ^ 第72期棋聖戦挑戦者決定トーナメント/五番勝負(日本将棋連盟)
  6. ^ 第73期棋聖戦挑戦者決定トーナメント/五番勝負(日本将棋連盟)
  7. ^ 第64期名人戦・順位戦 七番勝負/A級(日本将棋連盟)
  8. ^ 第65期名人戦・順位戦 七番勝負/A級(日本将棋連盟)
  9. ^ 第1回大和証券杯ネット将棋・最強戦(日本将棋連盟)
  10. ^ 第67期名人戦・順位戦 七番勝負/A級(日本将棋連盟)
  11. ^ 第37期棋王戦挑戦者決定トーナメント/五番勝負(日本将棋連盟)
  12. ^ 郷田真隆九段、NHK杯初優勝! 矢内女流五段は司会を卒業 - NHKテキストView・2014年5月2日
  13. ^ 『将棋世界』2014年6月号 p.146 郷田によるNHK杯戦決勝の自戦記。 - なお挑戦者決定戦での3度もの敗退とNHK杯戦の優勝について、郷田は「たまにはいいこともないとね(笑)。」と著している。
  14. ^ 王将戦中継ブログ(日本将棋連盟)
  15. ^ 王将戦中継ブログ「久保九段が七番勝負制す」(2018年3月15日)ほか
  16. ^ NHK杯テレビ将棋トーナメントで対局者として出演したときの感想戦で発言。また、それから数年後、2009年度の竜王戦第2局で立会人を務めた際の前夜祭でも発言している竜王戦中継plus 2009年10月27日の記事
  17. ^ 棋士がよみとく「夏の十二番勝負」 #3 勝又清和 文春オンライン 2021年9月12日
  18. ^ 1990年度NHK将棋講座8月号、編集記事より
  19. ^ 将棋マガジン」(日本将棋連盟)1995年9月号
  20. ^ https://web.archive.org/web/20091212185344/http://www.spopre.com/shogi/070919/01.html
  21. ^ ニコニコ生放送第70期名人戦第5局1日目の大盤解説より
  22. ^ 郷田真隆棋王のプロレス - 将棋ペンクラブログ・2012年5月3日
  23. ^ 郷田九段、プロレスを語る - ニコニコ動画
  24. ^ 郷田新王将はプロレスファン 新日両国大会観戦で大喜び - スポーツニッポン・2015年4月6日
  25. ^ 郷田真隆棋聖(当時)「腕前は将棋の棋力でいうとアマ2級くらいです」 - 将棋ペンクラブログ・2015年1月12日
  26. ^ “将棋界最後の大物独身 郷田王将が結婚!大島優子似8歳下女性と”. スポニチアネックス. (2016年9月1日). オリジナルの2016年9月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160901031027/http://www.sponichi.co.jp/society/news/2016/09/01/kiji/K20160901013271490.html 2016年9月1日閲覧。 
  27. ^ 近代将棋(1999年7月号)』近代将棋社/国立国会図書館デジタルコレクション、166頁https://dl.ndl.go.jp/pid/6047371/1/84 
  28. ^ 郷田真隆九段 600勝(将棋栄誉賞)を達成!(日本将棋連盟)
  29. ^ 郷田真隆王将、800勝(将棋栄誉敢闘賞)達成!(日本将棋連盟)






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