足利義詮 人物

足利義詮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 00:29 UTC 版)

人物

足利義詮木像(等持院

古典『太平記』では、他者の口車に乗りやすく酒色に溺れた愚鈍な人物として描かれているが、実際には父の尊氏が不在の際に半済令を発して武家の経済力を確保する一方、異母兄の直冬からの侵攻により幕府が窮地に陥った際も、神南の戦いから京都市中での合戦でこれを破るなど、内政や軍略で功績を残している。さらに細川清氏の失脚や斯波氏の一時失脚(貞治の変)に乗じて、守護勢力を抑制し中央の将軍権力を高めるなどの政治力も発揮している。また義詮時代に大内弘世山名時氏ら有力守護をはじめ、仁木義長や桃井直常石塔頼房も幕府に帰参しており、その治世に南北朝動乱をほぼ終熄させて幕府政治に安定をもたらしたことも無視できない。奥州には石橋棟義を、九州には斯波氏経渋川義行を派遣したが、九州平定は実現しなかった。『太平記』は、義詮が没し細川頼之が管領に就任する章(巻第三十七)で物語を終えている。

尊氏同様に文人でもあり、連歌和歌が多く後世に伝わっている他、貞治6年(1367年)3月には京都の新玉津島神社において新玉津島社歌合を開いている。また、尾道天寧寺を建立した。

正室は足利一族の渋川幸子であるが、彼女との間に生まれた男子は早逝している。その後しばらく子に恵まれず、跡継ぎを得たいためか不明であるが、公家の娘や天皇に仕える女官など多くの女性と交わり、義詮は腎虚になって寿命を縮めたと言われている。

伝説

楠木正行との関係

義詮の遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の善入山宝筐院)の楠木正行楠木正成の長男で「小楠公」と尊称される)の墓の傍らで眠らせ給え」とあり、遺言どおり正行の墓(五輪石塔)の隣に墓(宝筐印塔)が建てられた、という伝説がある。

これは永和3年(1377年)4月に宝篋院第二世院主の呉渓が記したと称する記事に基づく[3]。しかし、南北朝時代を専門とする研究者藤田精一は、以下の点からこの伝説に疑問を投げかけている[3]

  • 記事の文体書風が南北朝時代のものと合わず、呉渓本人の著とは考えられない[3]
  • 自称呉渓の記事では楠木正行が正平3年(1348年)1月5日に黙庵周諭(宝篋院第一世院主)に参禅し、その翌日(6日)に戦死したとするが、史実としては1月5日中に四條畷の戦いで戦死しており、日付が一致しない[3]
  • 義詮が黙庵を崇敬しており、死の間際に何か後事を託したのは一次史料から確認できる(義堂周信『空華老師日用工夫集』[3])。ただし、自称呉渓の記事では、死のずっと前のある日、たまたま義詮と黙庵が正行の話題に及んだのを、黙庵が義詮の死後に思い出して遺言を実行したとしており、史実と状況が一致しない[3]
  • そもそも義詮の遺骨が納められたのは鎌倉浄妙寺光明院である(『空華老師日用工夫集』[3])。他に鎌倉瑞泉寺円覚寺黄梅院は分骨を許可されたが、それ以外の寺は遺命にないとして分骨を却下されている(『空華老師日用工夫集』[3])。従って、善入山宝筐院に足利義詮の遺骨は存在しない。

ただ、足利将軍家楠木氏を敬慕していたのは、足利氏寄りの史書『梅松論』で楠木正成が「賢才武略の士」として英雄視されていることなどから事実である。義詮が第一世院主の黙庵を崇敬していたこともあり、そうした経緯からこの伝説が生じた可能性はある。

一方、足利将軍家と仏教寺院の関わりを研究している研究者の高鳥廉によれば、宝筐院は元々義詮の香火所(焼香する場所)として等持院内に設置されていたが、足利義政の時代に等持院は尊氏の香火所、相国寺は創建者である義満以降の歴代の香火所と定められたために義詮の香火所である宝筐院は等持院の外へ移転させることになった。また、文正元年(1466年)に実施された義詮の百年忌が等持院側の資金不足で義政が自弁で開催せざるを得なかったことも、義政に義詮のための独立した寺院の必要性を感じさせたという。その際に義詮が崇敬する黙庵周諭がいた善入寺(観林寺)が注目され、足利将軍家の庇護と引換に善入寺の施設が義詮の香火所に転用され、寺名も宝筐院と改称されて事実上統合されたとされる[8]。高鳥説によれば、義詮と宝筐院(観林寺・善入寺)の直接的な関係は、義詮の死から100年経った足利義政の宗教政策の産物に過ぎないことになる。

系譜

足利義詮の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 足利頼氏
 
 
 
 
 
 
 
8. 足利家時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 上杉重房
 
 
 
 
 
 
 
4. 足利貞氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 北条時茂
 
 
 
 
 
 
 
9. 北条時茂の娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 足利尊氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 上杉重房
 
 
 
 
 
 
 
10. 上杉頼重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 上杉清子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 足利義詮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 北条長時
 
 
 
 
 
 
 
12. 北条義宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 北条久時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 赤橋登子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

注釈

  1. ^ 足利竹若丸、足利直冬という2人の庶兄に次いで三男とされる。
  2. ^ 孫の義淳の時代において「斯波氏は代々『』の字を与えられる」(『満済准后日記』)と明確に述べられていることや、兄の氏経氏頼足利尊氏(義詮の父)、年齢的に割と近い甥(兄の子)の詮経・詮将が足利義詮、義将の子の義重や義種の子の満種満理足利義満(義詮の子)から1字を受けていることからほぼ確実とみられる。

出典

  1. ^ 足利義詮』 - コトバンク
  2. ^ a b 瀬野 2005, p. 177.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 藤田精一楠氏研究』(増訂四)積善館、1938年、204–206頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593/204 
  4. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典』(第5版) 三省堂、2009年 32頁。
  5. ^ 黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』角川学芸出版、2012年。ISBN 978-4-04-703509-6 
  6. ^ 赤松俊秀「足利氏の肖像に就いて」『美術研究』52号、東京文化財研究所、1949年。 また同論文は、本画像を紹介すると同時に義詮像として問題なしと論じ、この論旨が広く広まっている。
  7. ^ 米倉迪夫 「足利氏の肖像 --宝筐院蔵足利義詮像を中心に--」(栃木県立博物館発行・編集 『開館三〇周年特別企画展 足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝』展図録、2012年。ISBN 978-4-88758-069-5)。
  8. ^ 「嵯峨宝筐院の成立と泰甫恵通の動向」『仏教史学研究』59巻2号、2017年。 /所収:高鳥『足利将軍家の政治秩序と寺院』吉川弘文館、2022年、245-248頁。ISBN 978-4-642-02976-6 






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