足利義教
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評価
- 貞成親王は義教の時代を「薄氷を踏むの時節(踏薄氷時節)」(『看聞御記』永享3年3月24日条)とし、「悪将軍」と評している[26]。また、義教の横死を「自業自得ノ果テ、無力ノ事カ。将軍此ノ如キ犬死ニハ古来ソノ例ヲ聞カザル事ナリ」と評している[26][注 14]。
- 織田信長は15代将軍の足利義昭に意見書(異見十七ヶ条)を送っているが、その中で「義昭が『悪御所』と噂されているが、義教もかつて同様に噂された」としている。
近世の評価
- 斎木一馬が「恐怖の世 嘉吉の変の背景」(1968年)で論じたように、義教の政治は一種の恐怖政治が敷かれていたと評価されている[26]。
- 井沢元彦[注 15]や明石散人[注 16]など、歴史関連の著作を持つ小説家が高い評価を行ったこともある。
墓所・肖像
- 墓所
法号は普広院殿善山道恵。墓所は京都市の十念寺。また、義教の首塚とされるものが大阪市の崇禅寺と、兵庫県加東市の安国寺に存在する。
- 肖像
没後、鎮魂用の肖像画が多く描かれたようである。知られている現存作品は以下のとおり。
官歴
※ 日付=旧暦
- 正長元年(1428年)3月12日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。還俗し、義宣と名のる。4月14日、従四位下に昇叙。
- 永享元年(1429年)3月9日、元服。3月15日、参議に補任し、左近衛中将を兼任、征夷大将軍宣下。義教に改名。3月29日、従三位に昇叙し、権大納言に転任。8月4日、右近衛大将兼任。12月13日、従二位に昇叙。
- 永享2年(1430年)1月6日、右馬寮御監兼務。10月17日、従一位に昇叙。
- 永享4年(1432年)7月25日、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。8月28日、左大臣に転任。右近衛大将兼任如元。12月9日、淳和奨学両院別当兼務。
- 永享5年(1433年)8月9日、右近衛大将辞任。
- 永享10年(1438年)8月28日、左大臣辞任。
- 嘉吉元年(1441年)6月24日、薨去。6月29日、贈太政大臣。
系譜
- 父:足利義満
- 母:藤原慶子
- 正室:日野宗子
- 子:女子(大慈院)
- 正室:正親町三条尹子(瑞春院、正親町三条実雅の妹)
- 側室:日野重子
- 側室:正親町三条豊子(上臈局、正親町三条尹子妹)[49]
- 子:某 - 七男[50]
- 側室:小宰相局(正親町三条尹子侍女)[50]
- 側室:宇治大路氏
- 子:女子(宝鏡寺)
- 側室:少弁殿[50]
- 子:某 - 三男[50]
- 側室:斎藤朝日妹[49]
- 側室:小宰相殿[50]
- 子:某 - 六男[50]
- 側室:日野烏丸殿御妹[50]
- 子:某 - 八男[50]
- 側室:東御方(長慶天皇孫、玉川宮女)
注釈
- ^ 正確な日付は確定できないものの『満済准后日記』応永20年5月28日条にて義円を「青蓮院新准后」と呼称している記事がある[11]。
- ^ くじ引きの提案者は『満済准后日記』によると満済ということになっているが、万里小路時房の『建内記』によれば、先ず諸大名が評議して籤引を提案し、これを受けて義持が重ねて籤引を行うようにと言ったという。今谷明は『建内記』の記述が正しいと見ている[13]。
- ^ 『建内記』によれば、満済や幕閣が候補者を義持の弟4人に絞ったのは義持の意向を反映したものとしているが、高鳥廉は義持の意向は彼の従兄弟にあたる満詮流の4兄弟(いずれも僧籍)から次期将軍が立てられる事態を阻止するものであったとしている[14]。
- ^ 義持は生前、石清水八幡宮でくじを引き、「男子誕生」の卦が出ていたため、二度目のくじをひくことで、2つの矛盾する神意が示されることを恐れ、死後に開封するよう定めたと考えられている[15]
- ^ くじ引きで三宝院満済らが事前に仕組んだ不正であるとする説(田中義成『足利時代史』、佐々木銀弥『室町幕府』、本郷和人『人物を読む 日本中世史 頼朝から信長へ』(講談社選書メチエ、2006年) ISBN 4-06-258361-5)もあるが、史料の根拠はない。
- ^ 還俗した将軍としては護良親王がいるが、これは凶例とされていた[18]。
- ^ 石原比位呂は兄の義持が後小松上皇-称光天皇(後光厳天皇系)のラインを擁護したのに対して義教が貞成親王-後花園天皇(崇光天皇系)のラインを擁護することで、義持の政治的立場は継承しつつ持明院統と足利将軍家の正統を義持および後光厳天皇系ではなく義教および崇光天皇系として位置づけようとしたのではないかと推測する[27]。
- ^ 永享3年(1431年)に管領斯波義淳が自己の都合が悪い諮問をごまかして諸大名に義教からの諮問内容を正確に伝えなかった事件があった。なお、直接諮問方式でも奉行人などが義教と大名を取り次ぐことがあったが、前述の事件より諮問への取次者の関与は禁じられていた[28]。
- ^ 一見すると、管領の権限抑制策と相反するように見えるが、軍事指揮における責任者は将軍(義教)自身であり、管領は将軍に代わって命令文書を作成するに止まり、むしろ将軍主導の強化策の延長上にあった[29]。
- ^ 光聚院猷秀はもともと比叡山から追放された僧であったが、永享3年に帰山し、延暦寺の重要な役職に就いていた。猷秀の復権はすべて幕命による措置であったという(『大津市史』)
- ^ 義教の正室・正親町三条尹子の兄
- ^ 後に長禄の変の功により再興される。
- ^ この場合の「尼にさせられた」は、単に髪を切ったという意味で、出家させられた事を意味する訳ではない。男性が「坊主(頭)にさせられた」というのと、同じ意味合いである。
- ^ 上述されているように、義教自身は後花園天皇の実父である貞成親王を尊重する姿勢を見せていたが、その貞成親王でさえ義教の振る舞いを快くは思っていなかった。
- ^ 『逆説の日本史』中で、「比叡山制圧や大名統制など、義教の先鞭を織田信長・徳川家康らが完成させた」「九州平定・関東制圧など義満でも出来なかったことを成し遂げ、最大領土を獲得した」と評価している。「絶対権力の確立による国内安定・平和の達成」をほぼ完成させたが、絶頂期に暗殺されてしまい、室町幕府はその後成果を霧散させてしまった、との見解を示している。
- ^ 信長を評価しない一方で義教を「頼朝・秀吉・家康よりも上、武家史上未曾有の天才武将」と評価している[48]。
- ^ 『続群書類従』や紫波郡の伝承による。詳しくは当該項目を参照のこと。
出典
- ^ 『足利義教』 - コトバンク
- ^ a b c d 臼井 1989, p. 237.
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 33頁。
- ^ a b 伊藤 2008, p. 228.
- ^ 「足利義教」『朝日日本歴史人物事典』
- ^ a b 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 220.
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- ^ 高鳥廉「足利将軍家子弟・室町殿猶子寺院入室とその意義-室町殿と寺院・公家社会との関係を探る-」(初出:『史学雑誌』130編9号、2021年)/改題所収:「室町前期における足利将軍家出身僧の身分と役割」『足利将軍家の政治秩序と寺院』(吉川弘文館、2022年) ISBN 978-4-642-02976-6)2022年、P41-42.
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- ^ a b c d e f g h i 家永 2014, p. 6.
- ^ a b c d e f g h i 家永 2014, p. 7.
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