白樺文書 (ルーシ) 白樺文書 (ルーシ)の概要

白樺文書 (ルーシ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 07:04 UTC 版)

各年代の白樺文書

(留意事項)

  • ルーシの白樺文書には出土順に識別番号がふられているが[8]、以下、単に「No.00」などと表記したものはノヴゴロド出土のものであり、それ以外のものは「〇○(出土地)のNo.00」などと表記している。
  • 地名は2023年現在の名称を、各国語(ロシア語・ウクライナ語・ベラルーシ語)準拠のカタカナ表記で記述している。また、便宜上、通称である「ノヴゴロド」(公式名称ヴェリーキー・ノヴゴロド)を用いている。
  • 白樺文書中の人物名は現ロシア語からのカタカナ表記で記述している。またキエフ・ルーシ期などの歴史的人物、帝政ロシア期、ソビエト連邦期の人物名も便宜上ロシア語準拠のカタカナ表記で記述している。

特徴

他の筆記媒材との比較

ルーシのピサロ(13世紀・ロシア)
ノヴゴロド出土の蝋板

ルーシでは、遅くとも11世紀の第1四半期から樺皮への筆記が確認でき、が安価に普及する15世紀半ばには使用例がみられなくなる[9](なお、ロシアでの紙の使用例は14世紀半ば以降からみられはじめる[10])。白樺の樹皮を文字を書く材料として利用するために、内皮の脆い層や外皮の表面をはがし灰汁で煮て弾力性を増すなどの加工が施されたが、こうした加工が施されないまま利用された樹皮も少なくない[11]。記述に際して樺皮の両面が使用されることはまれで、単語間に空白を開ける分かち書きはなされず、大多数は中世の東スラヴ語群キリル文字によるものである。また、ピサロ(ロシア語: писало)と呼ばれる鉄または骨製の筆記用具で樺皮に文字を刻む筆記方法がとられている[12][13]。ピサロの出土は白樺文書よりも早かったが、当初は用途不詳の物品であり、白樺文書の発見によって筆記用具と判明した[14]。ルーシのピサロの多くは一端が尖り、一端はへら状になっている[15]

ルーシでは同時代における羊皮紙の使用も確認されるが、樺皮は羊皮紙に比べ非常に安価な記録媒材だった[16]。内容としては、羊皮紙史料は宗教関連や政治上の重要事項を記述したものが主であるのに対し[17]、樺皮は個人の手紙、商取引の連絡事項、メモなどの日常的な用途、さらには羊皮紙に記述する際の下書きなどに用いられた[17]官吏への嘆願書の草稿である「No.831」には、羊皮紙に清書してから提出せよという指示も併せて書かれている[18]。概して樺皮は一時的な記録用紙として用いられ[17]、長期保存を求める際には羊皮紙が用いられた。そのため、発見される白樺文書の多くは記録媒材としての用を終えて廃棄されたものであり、廃棄前に破られたものも多い。白樺文書の棄損は、受取人が他者に読まれることを防ぐために行われたものである[19]。また、用途を果たした文書が破り捨てられる慣習は、12世紀のノヴゴロドの叙述家キリク(ru)の著した『キリクの質問(ru)』にも言及がみられる [注 2]

なお、ルーシでの蝋板(ツェーラ)の出土も比較的遅く、1928年にはE.カルスキー(ru)による、キエフ・ルーシ期において蝋板は使用されなかったとする見解も出されていた[21]。しかし1954年に白樺文書と同じく蝋板も出土し、これによって、ピサロのへら状となった一端は、蝋板の表面を整えるのに用いられたと判明した[15]。また、幼少の文字学習者の使用に関しては、初めは記述の比較的容易な蝋板を用い、その後に樺皮を用いての学習に進んだとみられる[22]。ただし、蝋板は2000年までに12枚[21](2008年にさらに1枚[23])発見されているのみであり、普及数は多くはなかったとも見られている[21][注 3]

記述内容

参考画像:樺皮の剥離(エストニア
「No.497」
「No.201」。オンフィームによる文字の練習の1枚[24]

白樺文書の大部分は個人的な手紙である[5]。手紙の書き手が女性であるものも複数確認されている[5]。なお、手紙は差出人と受取人が共に知っている情報は記述を省かれるため[9]、現代の第三者である我々が内容を解釈するのに難解なものもある。家族間の手紙の例としては、「No.125」は、母であるマリナが息子のグリゴリーに服を買ってきてくれるよう頼んだものである[25][26]。「No.424」では、ギュルギーがノヴゴロドに住む両親に、穀物の安いスモレンスクキーウに移住することを勧めており[27][28]、「No.497」は、ガブリラという人物が、義理の兄弟グリゴリーと姉妹のウリタをノヴゴロドに招いた手紙である[29]。「No.377」ではミキータ(男性名)がマラニヤへ結婚を申し込んでいる[30][31]

また、債務の回収や商売の(あるいは家庭内での)用務的性質を帯びた記録文も多数である。このうち、物品などの一覧表は、記録を目的としただけでなく、実際に回収するべきものを示した指示書、あるいは、14 - 15世紀の農民が領主に対して提出したチェロビトナヤ(ru)(請願書[32]、祈願書[33])のような役割を持つものだった可能性がある[注 4]

その他の出土数の少ないが特徴的なものは、以下の4種類に分類される[34]

  • 公的文書の下書きあるいは清書:下書きとしては、遺言状売買契約領収証、裁判所の議事録などの公的性質を帯びるものの下書きが確認されている[注 5]。また、このグループでは方言を用いて記述された箇所はまれである[34]
  • キリスト教関連:教会での祈りや、ポウチャニエ(直訳:説教[37])の書かれたもの、イコンの注文書など[注 6]。このうち「No.419」は、祈りの言葉をいくつか抜粋したものが3枚の樺皮に記されており、縫い穴の跡、2つに畳んだ跡から、冊子状に製本したものと確認された[40][41]
  • 文学・民間伝承的内容:文学作品の抜粋、民間伝承の呪文であるザゴボル(ru)なぞなぞジョーク、現在でいう個人ファイナンスの教訓など[注 7]。このうち、1160年代 - 1210年代のものとみられる「トルジョークのNo.17」は、キリル・トゥーロフスキー(ベラルーシ語:キルィラ・トゥラウスキ[42] / トゥーラウのキルィラ)の著述の一部である[43]
  • 教育・学習関連:教育に関する指示書や、文字や文を練習したもの[44]。このうち、1956年に発見された複数の白樺文書(「No.199 - 210、331」)は、オンフィームという、当時6、7歳だったと推測される13世紀の少年が学習に用いたものとみなされている[5][45]

ノヴゴロド

14世紀のノヴゴロド

白樺文書はノヴゴロド出土のものが圧倒的多数を占める[17]。その理由の1つは地理的環境にある。廃棄された白樺文書が、水分を多量に含むノヴゴロドの土壌に沈み込み空気から遮断されたことが、白樺文書の保存につながった[5]。(なお、中世キーウの市街地ポジールの場合、水源は地下およそ4 - 5mの位置にあったとされる[46]。)また、インクの塗布ではなく、筆記媒材を彫る記述方法だったことも、判別しうる文字の保存につながった[12]。加えて、ノヴゴロド都市民が、他の中世の諸都市に比して高い識字力を有していたとみられる[17]

そして、白樺文書が15世紀後半以降の地層から出土しなくなるのは、紙の普及という技術的要因とともに、経済・政治的理由によるノヴゴロドの凋落にも原因があると指摘されている[47]。バルト海に通じる河川ヴォルホフ川沿岸の都市であったノヴゴロドは商業都市として繁栄し[47]、1392年にはハンザ同盟とニブル条約(ru)を締結していた[48][注 8]。しかし15世紀にはハンザ同盟との対立、またリヴォニア騎士団との戦争(1443年 - 1448年、ノヴゴロド・リヴォニア戦争(ru))によって貿易活動は衰退し、ヴィボルグナルヴァストックホルムなど沿バルト海の競争相手に水をあけられることとなった[49]。ルーシ内部では、台頭するモスクワ大公国からの圧力を15世紀半ばから受け(1456年 - 1478年、モスクワ・ノヴゴロド戦争(ru))、1478年にはモスクワ大公国に併合されている[50]

記述年代の推定方法

それぞれの白樺文書の書かれた年代の推定は、主に年輪年代学に基づく測定によってなされる[17]。特にノヴゴロドでは、頻繁に増補がなされた同時代の木製舗装道路(泥地の上に敷かれ、沈下すれば新たな木材をその上に敷設した[45])が層をなして出土するため、他の都市よりも正確に年代が測定されており、その誤差は30 - 40年とみられる。ノヴゴロドの発掘調査では、考古学者B.コルチン(ru)と植物学者V.ヴィフロフ(ru)が、年輪年代学による測定法を確立させた[51]。また、年代記に記された歴史的人物や出来事について言及されているものもあり[注 9]、年輪年代学による測定と組み合わせることで、白樺文書の書かれた時期を推定できたものもある[34]。近年では、白樺文書の出土数の累積により、文字の形状(古書体学)や表記上の形式などの面から推定する方法が言語学者のA.ザリズニャク(ru)から提唱され、年輪年代学による推定の難しい樺皮に活用されている[34]

発掘史

「No.278」。ドイツ語訳付

考古学的発掘による現物発見以前から、樺皮への記述の存在は知られていた[16]。15世紀の修道士イオシフ・ヴォロツキー(ru)は、清貧を旨とする修道士は自身のを(高価な)羊皮紙ではなく樺皮に執筆していた、と叙述している[54]。また、17 - 19世紀の古儀式派の人々の手による、樺皮を製本した本が現存しており、1930年にはヴォルガ川河畔のテルノフカ(ru)ウヴェク対岸)で、14世紀のジョチ・ウルスによるモンゴル文字の記された樺皮が発見されていた[55][注 10]。なお、古儀式派ならびにジョチ・ウルスの文章は、インクを用いて記述されていた。

ルーシの白樺文書の最初の発見は、19世紀末のノヴゴロドにおいて、郷土史家のV.ペレドリスキー(ru)によるものであった。ペレドリスキー自身は古東スラヴ語古書体学に明るくなかったため読解はできなかったが、自分たちの祖先の書いた文章であると認識し、第一発見者である農民たちからの購入や、自身による発掘を行い収集を始めた[56]。ペレドリスキーはノヴゴロド市内に私立博物館を設立し、発見物を展示したが、当時(19世紀末)の農民たちの落書きや偽造であるなどの評価を受けることとなった[56][注 11]。また、ペレドスキーの死後、博物館は国有化され、収集も1920年代に散逸した[56]

1930年代になると、ノヴゴロドでは考古学者A.アルツィホフスキー(ru)の指揮する調査隊による発掘が行われた[58] 。1930年代の発掘では、樺皮、蝋板は未発見)、また上述の筆記用具ピサロが複数発見されたが、文章の記された樺皮の発見には至らなかった。なお、この段階ではピサロの用途は判断できず、釘、髪止め、あるいは未知の物品等と記録された。アルツィホフスキーは文字の書かれた樺皮が存在するとの仮説を立てていたが、第二次世界大戦独ソ戦)によって調査は中断された[9]

1940年代後半に調査が再開された後、1951年7月26日[9]、アルツィホフスキーの調査隊は、ノヴゴロドのネレフスキー区(ru)(ネレフスキー・コネツ[注 12])において、1枚目の白樺文書を発見した。この「No.1」の第一発見者は、産前産後休業中の副業として調査に参加していたノヴゴロドの女性N.アクロワであり、土中から巻物状の樺皮を発見したアクロワから、発見区域の担当者の長であったG.アヴドゥシナ(ru)へ、そしてアルツィホフスキーへと連絡が伝わった[61]。「No.1」は洗浄処理の後、広げられてガラス板に挟み込まれ、古書体学の専門家であったM.チホミロフ(ru)の元に送られた。なお、第一発見者のアクロワはアルツィホフスキーから賞金を授与されている[62]

1951年中には10枚の白樺文書が発見され、最も古い「No.9」は1160年 - 1180年ごろのものと判別された[63]。「No.1」は1380年 - 1400年ごろの、収入あるいは支払いの記録と解読された[64]。ただし、発見当初、ソヴィエト科学におけるイデオロギー統制(ru)によって、報道機関は発見に関する明確な説明を得ることができなかった[65]

スモレンスク出土の白樺文書
「ヴィーツェプスクのNo.1」

ノヴゴロド以外では、1952年のスモレンスク(D.アヴドゥシン(ru)による。以下括弧内は調査隊を指揮した学者の名。)を初めとして、1958年にプスコフ(G.グロズディロフ)、1959年にヴィーツェプスク(建設工事中の発見)[66]、1966年にスタラヤ・ルーサ(A.メドヴェージェフ(ru)[67][68]、1980年にムスツィスラウ(L.アレクセエフ(ru)[69]、1983年にトヴェリ[69]、1985年にトルジョーク[70]、1988年にはモスクワ赤の広場(S.チェルノフ(ru)[69]、またリヴィウ州ズヴェヌィーホロド(I.スヴェシニコフ(ru)[67]において、それぞれ各地での1枚目の白樺文書が発見された。20世紀末の時点で計800を越える白樺文書が出土し、その大部分はノヴゴロドでの発見だった[5]

21世紀においても各地で発掘調査がおこなわれ(なお、工事現場や個人の敷地内から偶然出土する例もみられた[71][72]。)、2007年7月の時点での出土総数は1000を越えた[73]。ノヴゴロド単独では、2010年5月初めに970枚を越え[74]、2017年10月7日には「No.1101」が発見された[75]

各都市では、2007年8月にモスクワ・クレムリン内のタイニツキー庭園(ru)[注 13]において発見された「モスクワのNo.3(ru)」はインクを用いて記述されていた。なお、インクを用いたものは1952年出土の「No.13」(ただし判読不能[77])、1972年出土の「No.496」があるのみで[78][79]、「モスクワのNo.3」はこれに次ぐ3枚目だった。2009年にスモレンスクでは、1980年代以来の、同地で16番目の出土がなされた。これは棄損された手紙の最後の行であり、「ラヂヤー(ru)(船の廃語[80])がなくなった」と記されていた[81]。2014年には、ムスツィスラウの12世紀前半の地層から出土した樺皮(I.マルザリュク(ru))に、何らかの2文字と、リューリク朝徽章である三叉槍が認められたと報道された[82]。2021年8月14日にはリャザンで初の出土がなされ、リャザンは白樺文書が出土した13番目の都市(現在の行政上の「市」ではなく、キエフ・ルーシ期の都市スタラヤ・リャザンを数に含む。)となった[83]

他のキエフ・ルーシ期の都市においては、2023年時点では文字の書かれた白樺文書の出土はないものの、2008年にはブシクにおいて樺皮と骨製のピサロが[84]、2010年にはキーウポジールにおいて、11 - 12世紀端境期の樺皮が[46]出土しており、白樺文書発見の可能性が示唆されている。また、1140年 - 1160年頃の「No.675」には、キーウ、ヴェリーキエ・ルーキスーズダリについての[85][86]、12世紀第3四半期の「No.1004」にはチェルニーヒウについての言及がなされている[87]。その内容はどちらも商取引に関する家族間の私信である[85][87]

2023年7月12日時点での、出土地と出土数は以下のとおりである。

国名 出土地 (地図上の位置) 出土数 地図 (黄:古ノヴゴロド方言地域)
ロシア ノヴゴロド (R1) 1154[88]
R1
R2
R3
R4
B1
B2
U1
R5
R6
R7
R8
R9・R10
スタラヤ・ルーサ(R2) 57[89]
トルジョーク (R3) 19[90]
スモレンスク (R4) 16[81]
プスコフ (R5) 8[90]
トヴェリ (R6) 5[90]
モスクワ (R7) 4[91]
ヴォログダ (R8) 3[92]
スタラヤ・リャザン (R9) 1[93]
リャザン (R10) 1[83]
ベラルーシ ムスツィスラウ (B1) 1[90]
ヴィーツェプスク (B2) 1[90]
ウクライナ ズヴェヌィーホロド (U1) 3[94]

注釈

  1. ^ スカンディナヴィアでは、15世紀のスウェーデンで樺皮への記述がなされていたことを記す史料があり、また17 - 18世紀に使用例があることが確認されている[3]。モンゴル語では17 - 18世紀のものとみられる白樺文書が発見されている[4]。チベット語のものについては#(参考)旧ソ連地域の樺皮使用を、北インド地方のものについてはen:Birch bark manuscript#Gandhāran Buddhist manuscriptsen:Birch bark manuscript#Sanskrit and Brāhmī manuscriptsを、北米のものについてはen:Wiigwaasabakを参照されたし。
  2. ^ 問答中の「文書を切り刻んで捨てる者」という表現を、白樺文書を破り捨てる慣習を指しているとする見解がある[20]
  3. ^ なお、この内の1枚であるノヴゴロド詩篇(ノヴゴロド・コデックス(ru)は、それまでルーシで著された最古の福音書と位置付けられていたオストロミール福音書(ru)(1056年から1057年。羊皮紙・インク)よりもさらに数十年古いものとみられている。
  4. ^ 「チェロビトナヤ」はモスクワ大公国イヴァン4世期に現れた、政府に陳情する際に提出した書類。陳情には物資の支援要請も含まれた[33]
  5. ^ 例えば「No.521」は自分の所有地をどう分けるかが書かれた遺言状であるが[35]、 正式な遺言状にあるべき文章冒頭・末尾の定型文と、ノヴゴロド大主教の代官から得た印章(羊皮紙に穴をあけて吊るす)のどちらも欠いていることにより、下書きとみなされる[36]
  6. ^ 1998年までにノヴゴロド・ネレフスキー区(ru)で出土した白樺文書のうち、教会での祈りの言葉を記しているとみられるものは2または3枚(同地出土数の0.5%)にとどまる[30]。また、 イコン画家の聖職者オリセイ・グレチン(ru)の屋敷跡から出土した「No.549」など2枚がイコンの注文または督促の手紙と解読されている[38]。なお、白樺「文書」の数には含まれていないが、「No.915-И」(915-I)には両面に人物が描かれており、「варвара」と添えられた片面は聖バルバラ、片面はイエス・キリストとみなされている[39]
  7. ^ なぞなぞは「No.10」に、漂流するノアの箱舟の元に鳩がオリーブの枝を加えて戻ってきた場面をたとえたものが記述されている。「No.10」日本語訳を以下に示す。
    空と地の間に町があり、この町に道もないのに口がきけない使者が来て、書かれていない手紙をもたらした。 — 松木・三浦、2001年5月。p36
    ジョークは「No.46」に、二行に渡る文字列を、通常の読み方どおり左から右へ横に読んでいくと意味が通じないが、1行目1文字目、2行目1文字目、1行目2文字目、2行目2文字目…というように縦に読んでいく(いわゆる縦読み)と文になる形で書かれている。「No.46」縦読みの日本語訳を以下に示す。
    馬鹿が書いて、阿呆が見せた。さてこれを読むのはダーレだ。 — 松木・三浦、2001年5月。p61
  8. ^ ニブル条約はロシア語: Нибуров мирの直訳による。ドイツ語名はNyeburs vrede。
  9. ^ 歴史的事件に関する記述のあるものの例としては、1075年 - 1110年の記述とみられる「No.906」は、ボリスとグレブ列聖について書かれており、史実の列聖年(1071年)とほぼ合致する[52]。また、1360年 - 1380年の記述とみられる「No.286」は、ノヴゴロドとスウェーデンの戦争後の和平条約(ロシア語名オレシェク条約(ru)。1323年締結)に基づいて徴税することを確認する、徴税官同士の私信である[53]
  10. ^ 詳しくはru:Золотоордынская рукопись на берёстеを参照されたし。
  11. ^ なお、ペレドリスキーは石器時代の遺跡の発掘を行い、出土品をサンクトペテルブルグ考古学研究所(ru)(施設名はロシア語: Санкт-Петербургский археологический институтの直訳による)に出展するなど[57]、他の時代の考古学的調査には業績を上げていた。
  12. ^ 「コネツ」は、この場合は都市内部を区分する歴史的な行政単位[59]。ノヴゴロドは5つ(ヴォルホフ川西岸に3つ、東岸に2つ)のコネツ=区にわけられ、ネレフスキー区は、「ノヴゴロド・デティネツ(またはノヴゴロド・クレムリ(ru)」を中心に扇型に区分された西岸の3つのコネツのうち、最も北部に位置した[60]
  13. ^ 「タイニツキー庭園」は日本語サイトの表記に基づく[76]
  14. ^ 当時のキリル文字についてはru:Старославянская кириллица(直訳:古スラヴキリル文字)を参照されたし。
  15. ^ 「No.752」(原文→単語の補充含む現ロシア語[108]→日本語の重訳): あなたに3回。(手紙上部並びに文頭欠損。「私はあなたに3回手紙を送った」か)。なぜ会いに来てくれなかったのですか?私はあなたを兄弟のように思っているのに。まさか、私が何か怒らせるようなことをしましたか?ああ、私は悟りました。愛はないことを。あなたが愛しているのなら、大急ぎで、人目を逃れて会いに来てくれることでしょう。(途中欠損)。もし、理性を欠く私が、あなたをいらだたせていても、あなたが私を笑うなら、神と私はあなたを裁きます。
  16. ^ 当然ではあるが、中世的な身分社会の中にある女性の姿も記述されている。
    「No.109」(原文→単語の補充含む現ロシア語[110]→日本語の重訳):ジズノミルからミクラへ。あなたがプスコフで女奴隷を買った件で、私は(プスコフ公国の)公妃に、(窃盗の罪状で)逮捕された。わが身はドルジーナ(:公直属の軍人)に委託されている。あなたにはまず、奴隷の売り手に手紙を送って確認してほしい(後略)。
  17. ^ たとえばА. А. Гиппиус, Д. В. Сичинава. Поправки и замечания к чтению ранее опубликованных берестяных грамот [XIII: предварительная публикация] // Русский язык в научном освещении, № 2, 2021.など。
  18. ^ 概略的に述べると、[i](и)が接続することで、何種類かの子音の発音が変化する法則。例:現ブルガリア語урок[k](「授業」の単数形)→уроц[ts]и(「授業」の複数形)[117]
  19. ^ スラヴ系言語において、キリル文字の一覧は、最初の二文字АБの旧称(アズ、ブカ)から名付けられた「アズブカ」とも呼ばれる[121]
  20. ^ 落書きは他にポラツク聖ソフィア大聖堂卑語を含む)[126]、ノヴゴロドでは聖ソフィア大聖堂などの複数の教会施設(アズブカを含む)で発見されている[127]。落書きは一般信徒のいる場所の壁でも、白樺文書発見の前から確認されており、読み書き教育の存在を示唆するものだった[127]
  21. ^ 性的な表現・単語を含むものの例としては「スタラヤ・ルーサのNo.35(ru)」、「No955(ru)」など。なお、1140 - 1160年代の[130]「スタラヤ・ルーサのNo.35」は、ロシア語における卑語は全てタタールのくびき中にタタール語から導入されたという見解(19世紀の説の1つ)を否定する史料であり[131]、「No955」中の卑語を含む一文は、19 - 20世紀の民間伝承の記録中に多数見られる、多産・出産を願う歌と同様のものである[132]
  22. ^ 詳しくはru:Юкагирская письменностьを参照されたし。

出典

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