柳家喜多八
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 23:46 UTC 版)
芸歴
経歴
- 1949年10月14日、東京都練馬区生まれ、新宿区百人町育ち[3]。両親ともに小学校教諭という比較的厳格な家庭で育つ。師匠の十代目柳家小三治と同じく親が小学校教諭、育った場所も小三治が柏木、喜多八が百人町と隣町だったこともあり共通点が多かった[4]。
- 1965年4月、イギリスの全寮制名門校イートン・カレッジをモデルとして開校した東京都立秋川高等学校に第1期生として入学。
- 1968年3月、東京都立秋川高等学校を卒業。卒業後は進路を決めあぐねていたが、高校時代の同級生ががんで急死したことをきっかけに、このままではいけないと一念発起。半年ほどの勉強で学習院大学に合格する[5]
- 1970年4月、学習院大学に入学。入学当初は、書道を得意としていたことから書道部に所属していたが、斜め前に落語研究会の部室があり、新入部員が入らずに焦っていた落研の先輩達の口車に乗せられ、そのまま落研に入部したことで落語に目覚める[6]。学生時代はひたすら落語にのめりこんだ。卒業したら好きな落語が続けられなくなるという理由で、2年留年してまで落研に留まり続ける。[7]。いっそのこと噺家になろうと思ったものの、教員である両親の反対もあり、一度は断念する[8]。その際、落語への未練を断とうと所持していた落語関連の書籍等は全て手放してしまった[9]。
- 1976年3月、学習院大学を卒業[10]。卒業後はマックスファクターに入社[11]するが、落語を諦めきれずに3ヶ月ほどで退社[12]。27歳を迎えようとした頃、最初に入門しようとした六代目三遊亭圓生には、高齢を理由に断られてしまった[13]。
- 1977年2月11日、十代目柳家小三治の自宅を訪れ、入門したい旨を伝えると親の職業を訊かれたため「教員です」と答えたところ、自分と同じ境遇だと思ったのか、すんなり入門を許されたと語っている[14]。 初高座は前座見習いの頃、銀座中央会館「小三治独演会」でかけた道灌だった[15]。
- 1978年9月、前座となる。高座名「小より」を名乗る。同日に楽屋入りしたのは落語界の御曹司、林家こぶ平、柳家小太郎の2人だった。[16]当時から、古今亭志ん八と共に上手い前座として目立っていたという[17]。前座の頃は、落研特有のクセが抜けずに苦労したことを自ら明かしている[18]。
- 1981年5月、二ツ目昇進。「小八」に改名。この頃になると「落語協会に上手い二ツ目がいるらしい」と落語芸術協会でも噂になっていたが[19]、前座時代に楽屋にいたところを初代林家三平に小三治と間違われるほど雰囲気や芸風が似ており[20]、喜多八自身は「小三治の影武者」と言われることに悩んでいる時期でもあった。師匠の影を消すために七転八倒し、陰気に見られがちな自身の雰囲気を逆手に取ったことが、後の独自の芸風確立へとつながっていった[21]。
- 1993年9月、真打昇進。「喜多八」に改名。名付け親は、当時、鈴本演芸場の支配人だった富田力[22]。古今亭菊寿、入船亭扇海、柳家はん治、三遊亭若圓歌、三代目入船亭扇蔵、四代目柳亭市馬、柳家さん生、全亭武生、古今亭志ん上と同時の大所帯昇進だった。ここから次第に個性や芸風が確立され、独自の路線を切り開いていくことになる。
- 2014年9月15日、鈴本演芸場で「喜多八 十夜」の公演中、喜多八が「盃の殿様」を演じ終えた直後に緞帳が落下。事故現場となった高座の上にいたが、喜多八・観客ともに怪我はなかった[23][24]。公演5日目の事故だったが、翌日以降も緞帳を上げたまま公演は続行された[25]。
- 2016年4月30日、既に体調が思わしくない中、横浜にぎわい座で「落語教育委員会 柳家喜多八、三遊亭歌武蔵、柳家喬太郎 三人会」に出演。恒例となっている開演時のコントでも気丈に死神役を演じていた。[26]。
- 2016年5月17日、がんのため死去[29][30]。66歳没。最期の時が近づき、意識が遠のいて心拍数が低下していく中、出囃子の「梅の栄」をかけると、その音に反応するかのように、心拍数や呼吸数、すべての数値が一気にハネ上がったという。そのまま「梅の栄」を聴きながら、亡くなった。[31]。
- 2016年5月20日、死去の一報が落語協会公式ホームページで公表されると、アクセスが集中し、サーバーダウンにより一時繋がらない事態となった[32][33]。がん闘病中とあって、最晩年はやせ細り、板付きで高座に上がるなどしていたが、寄席や落語会に精力的に出演し続けている最中の急逝であったことから、悲報の衝撃は大きく、逝去が伝えられて間もない寄席の夜席では、ネタ帳を持ったまま舞台に出てきたり、既にかかっていたネタを再びかけようとしたりと、噺家の間でも動揺が見られた[34]。
- 2016年6月28日、演芸情報誌「東京かわら版」は、2016(平成28)年7月号で30ページに及ぶ喜多八追悼特集を組んだ[35]。30ページにわたる特集が組まれたのは、平成24年2月号の立川談志追悼特集以来のことだった。
芸風
- 師匠の芸を受け継ぎつつ独自の芸風を確立し[38]、柳派のネタはなんでもこなし、柳派の中堅落語家として玄人筋の評価が高かった。滑稽話も人情噺も器用にこなし、人物描写の細やかさ、独自の高い演出力に定評があった。[39]。
- 持ちネタの総数は260とも言われ[40]、研究熱心、稽古熱心で、古い話や珍しい話の発掘に余念がなく、その姿勢は噺家仲間が舌を巻くほどであった。独自の演出を積極的に取り入れ、晩年まで貪欲に常に新しいネタを増やそうとしていた[41]。TBS落語研究会の追悼回(2016年7月23日放送)で、京須偕充は「新作落語の人ではないが、この人がある種の古典落語の限界を突き破ってくれた。独特の突き破り方だから、誰にも真似できない」と評している。
- 自称・虚弱体質。渋みのある声質ながら、とぼけた雰囲気を持ち、出囃子からけだるい雰囲気で座布団に座り、一見やる気のない枕から、いつの間にか熱演に引き込んで爆笑をさそう独自のスタイルで[42][43]、広瀬和生は「それぞれの噺が持っている面白さのポテンシャルを最大に引き出す演者」と評している[44]。体調を崩し、晩年に近づくにつれて、けだるい演出は少なくなり、話そのもので見せることが増えていった[45]。
- 前座時代から落語芸術協会に所属していた二代目桂小南の元へ通い、稽古をつけてもらっており、「代書屋」「いかけ屋」などを落語協会へ持ち込み、広めている。1983年9月の第25回国立名人会で「代書屋」をかけている記録が残っている[46]。
- 若手を育てることに尽力し、団体や所属の分け隔てなく、頼まれればすぐに誰にでも稽古をつけていた[47]。お互いに正座をし、着物や浴衣を着て稽古する師匠が多い中、教わる側が気を使わないようにと足を崩させ、自身は正座をしてぞろっぺえな姿で稽古をつけていたことが各所で明らかにされている[48][49]。
ユニット活動
- 三遊亭歌武蔵、柳家喬太郎と共に2004年からユニット「落語教育委員会」を結成しており[51]、公演ではコントも披露していた。喜多八亡き後は、新メンバーに三遊亭兼好を迎え、ユニットは現在も継続している。
- ^ “学習院大卒の落語家、柳家喜多八さん死去”. サンケイスポーツ. (2016年5月20日) 2016年5月20日閲覧。
- ^ 長井好弘 (2016年1月11日). “柳家喜多八を褒める”. よみらくご. 読売新聞社. 2019年9月15日閲覧。
- ^ 「青い空、白い雲、しゅーっという落語」堀井憲一郎 双葉社 p.235
- ^ 「青い空、白い雲、しゅーっという落語」堀井憲一郎 双葉社 p.230
- ^ 「東京かわら版2015年11月号」p.11
- ^ 「青い空、白い雲、しゅーっという落語」堀井憲一郎 双葉社 p.230
- ^ 柳家喜多八 情報(@Yanagiya_Kita8) (2020年10月14日). “今日は、喜多八の71回目の誕生日です。”. twitter. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 「師匠噺」浜美雪 河出書房新社 p.256
- ^ 柳家喜多八 情報(@Yanagiya_Kita8) (2020年10月14日). “今日は、喜多八の71回目の誕生日です。”. twitter. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 「落語教育委員会」 柳家喜多八、三遊亭歌武蔵、柳家喬太郎 東京書籍 2012年 p.166
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.31
- ^ 「師匠噺」浜美雪 河出書房新社 p.256
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.26
- ^ 「師匠噺」浜美雪 河出書房新社 p.257
- ^ 「青い空、白い雲、しゅーっという落語」堀井憲一郎 双葉社 p.231
- ^ “2016/05/23の2 柳家喜多八師匠追悼”. らくご聴いたまま (2016年5月24日). 2024年1月11日閲覧。
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.18
- ^ 「師匠噺」浜美雪 河出書房新社 p.262-266
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.13
- ^ “柳家喜多八さん:粋な落語家を忘れない 23日深夜放送”. MANTANWEB編集部 (2016年7月22日). 2024年1月11日閲覧。
- ^ 「師匠噺」浜美雪 河出書房新社 p.268
- ^ 「師匠噺」浜美雪 河出書房新社 p.268
- ^ 三浦琢揚 (2014年9月15日). “09月中席夜の部「柳家喜多八」主任興行「喜多八 十夜」@鈴本05日目(仲日)”. 月刊MRD通信. ミウラ・リ・デザイン. 2019年7月15日閲覧。 “最後の最後にハプニング。サゲを言って落として、太鼓が鳴って緞帳が下りて…と行くはずが、大きな音を立てて緞帳が急行落下。ドスン!バタン!埃が舞う舞台。緞帳と高座の間に距離があるとはいえ、相当の急降下。喜多八師匠に怪我がなくて何よりでした。”
- ^ 上野鈴本演芸場公式(@suzumoto1857) (2014年9月15日). “【緞帳落下事故についてのお詫び】”. twitter. 2019年7月15日閲覧。 “本日(2014年9月15日)夜の部終演時に発生した緞帳落下事故についてお客様及び関係各位に深くお詫び申し上げます。 有限会社鈴本演芸場 代表取締役社長 鈴木寧”
- ^ 上野鈴本演芸場公式(@suzumoto1857) (2014年9月16日). “【緞帳落下事故に関する第2報】”. twitter. 2019年7月15日閲覧。 “昨日(2014年9月15日)夜の部終演時に発生した緞帳落下事故の原因特定と明日以降の公演についてお知らせさせて頂きます。”
- ^ 朝日新聞2016年5月9日
- ^ 油井雅和(毎日新聞) (2016年7月22日). “柳家喜多八さん:粋な落語家を忘れない 23日深夜放送”. MANTAN WEB. 2019年9月7日閲覧。
- ^ 朝日新聞2016年6月25日夕刊
- ^ “柳家喜多八 訃報(落語協会)”. 2016年5月20日閲覧。
- ^ 朝日新聞2016年5月21日朝刊
- ^ 柳家喜多八 情報(@Yanagiya_Kita8) (2017年5月9日). “最期の瞬間が近づき、心拍や呼吸が低下していく中...”. twitter. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 噺家サポーター かくた(@chonanohana) (2016年5月20日). “《訃報》柳家喜多八師匠”. twitter. 2024年1月14日閲覧。
- ^ ひいらぎ(@new_hiiragi) (2016年5月20日). “畜生、落語協会のHPが繋がんねぇや。”. twitter. 2024年1月14日閲覧。
- ^ こつりん(@Kotsuli) (2016年5月20日). “扇辰師匠はネタが決まらないとネタ帳を手に登場...”. twitter. 2024年1月11日閲覧。
- ^ “東京かわら版2016(平成28)年7月号”. 東京かわら版 (2016年6月28日). 2024年1月11日閲覧。
- ^ “7月11日に落語家・柳家喜多八さんのお別れ会”. 産経新聞 (2016年6月9日). 2024年1月8日閲覧。
- ^ 京須偕充 (2016年7月15日). “落語 みちの駅「第五十回 喜多八さんを偲ぶ会のこと」”. otonano. ソニーミュージックダイレクト. 2019年9月9日閲覧。
- ^ 『師を離れ芸風確立へ-演芸 柳家喜多八の会』 保田武宏(読売新聞2000年4月17日)
- ^ 広瀬和生 (2018年11月22日). “『21世紀落語史』あまりにも残念な柳家喜多八の早逝【第36回】”. 本がすき。. 光文社. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 「落語ファン倶楽部vol.11」笑芸人 白夜書房p.53
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.14、p.16
- ^ 『自分の世界へひきこむ手腕-寄席 喜多八の会』 大田博(朝日新聞2002年6月)
- ^ 『柳家喜多八を聴いて楽しめぬ人は落語に向いてないとの意見』広瀬和生(週刊ポスト2011年6月10日号)
- ^ 広瀬和生 (2018年11月22日). “『21世紀落語史』あまりにも残念な柳家喜多八の早逝【第36回】”. 本がすき。. 光文社. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 小言幸兵衛 (2018年8月20日). “あちたりこちたり”. 2024年1月11日閲覧。
- ^ [1]文化デジタルライブラリー
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.27-p.32
- ^ 「喜多八膝栗毛」p.61 柳家喜多八 制作協力、五十嵐秋子(東京音協)まむかいブックスギャラリー
- ^ 三遊亭王楽 (2016年5月21日). “王楽のぽよよんブログ”. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.12
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.20
- ^ 柳家喜多八 情報(@Yanagiya_Kita8) (2023年5月17日). “喜多八が亡くなり、7年が経ちました。”. twitter. 2024年1月13日閲覧。
- ^ 「喜多八膝栗毛」p.59 柳家喜多八 制作協力、五十嵐秋子(東京音協)まむかいブックスギャラリー
- ^ 大友浩 (2016年5月23日). “芸の不思議、人の不思議”. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.12
- ^ 林家はな平 (2020年4月26日). “手拭いの話”. 2024年1月12日閲覧。
- ^ 三遊亭王楽 (2016年5月21日). “王楽のぽよよんブログ”. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 「東京かわら版2016年7月号」p.17
- ^ 「喜多八」の「キタ」に「汚い」をかけた。「永遠ちはや」は落語「千早振る」にちなむ。
- ^ コスイ(@organ_b3) (2014年12月2日). “うどの大木がなくなったの...”. twitter. 2024年1月12日閲覧。
- ^ 柳家喜多八 情報(@Yanagiya_Kita8) (2022年10月14日). “今宵は、学習院大学内にてご乗馬あそばされる”. twitter. 2024年1月14日閲覧。
- ^ 柳家喜多八 情報(@Yanagiya_Kita8) (2018年3月24日). “【八葉忌(喜多八三回忌)のご案内です①】”. twitter. 2019年9月4日閲覧。
- ^ 2012年、2014年と2015年1月の回は「落語教育委員会」として三遊亭歌武蔵(と柳家喬太郎)との出演、12月の回は柳家喜多八ひとり会。
- ^ “柳家喬太郎のようこそ芸賓館”. BS11. 2019年9月4日閲覧。
- ^ 現:いがぐみ
- ^ “特定商取引に関する法律に基づく表記”. いがぐみ. 2019年9月13日閲覧。
- 柳家喜多八のページへのリンク