寺村道成 寺村道成の概要

寺村道成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 03:38 UTC 版)

来歴

生い立ち

天保5年(1834年)、土佐国高知八軒町で、土佐藩士・寺村主殿成相(中老・700石)の三男として生まれる。兄は夭折しており、主殿は本家からすでに宇平(のち主水。諱は成寿)を養子に迎えていたが、安政元年(1854年)に主殿が死ぬと、道成は宇平の養嗣子となった[1]

国学を修めて才学人として藩内で知られるようになる。文久2年(1862年)2月5日、安政の大獄以来隠居していた前藩主・山内容堂から召され、側用人となり活躍した。同年4月、文久の改革に伴い、安政の大獄で罰せられていた人々の復権が図られ、容堂の謹慎も解除。道成も8月に政務参与となり、10月には御用部屋入りに任ぜられ、江戸京都で土佐藩の活動の一部を担った。

乾退助と時勢について対論

同10月17日、山内容堂の前において、武闘派の乾退助と時勢について対論をすることになり、寺村は穏健な公武合体論を述べ、乾退助は尊皇攘夷論を唱えた[2]

寺村は、当時藩政を主導した改革派の吉田東洋によって起用されたが、吉田に敵対する土佐勤王党武市瑞山らの過激尊王攘夷派からも、無難な穏健派と見られていた。しかし、吉田東洋を暗殺して藩の主導権を握った土佐勤王党が尊王攘夷派の衰退により藩当局の弾圧を受けるようになると、元治元年(1864年)6月には側用役を罷免となり、容堂から遠ざけられた。

薩土盟約

慶応3年(1867年)4月、再び容堂の側用役に任ぜられ、側近として復帰。同月に開催され、短期間に破綻した四侯会議の決裂後、容堂は帰国するが、実弟・山内豊積(兵之助)を名代として滞京させ、寺村、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟らに補佐を命じた。坂本龍馬の進言を受けた後藤象二郎大政奉還論に共鳴し、参政に任じられて薩土盟約の締結に加わった。当初から武力倒幕路線を歩んでいた薩摩に対して、左膳は和平路線を貫き、薩土盟約書の成文化を担当。盟約破綻後も大政奉還路線を推進した。

乾退助を失脚へ追い込む

「土佐藩は徳川恩顧の藩である」と主張し徹底佐幕を貫く小八木政躬(五兵衛)らと謀り、大政奉還に反対する乾退助の役職を剥奪して失脚させ、藩内討幕派の動きを封じ込める。

大政奉還

10月3日に主君・山内容堂ほか4名と連名して、老中板倉勝静に大政奉還建白書を提出した。これを受けて10月14日将軍徳川慶喜は大政を奉還し、朝廷に受け入れられた。この直前、左膳は報告のため帰藩している。11月、再び上京するが、すでに左膳と在京重臣との間には方針の隔たりがあり、国事掛は後藤・福岡・神山左多衛の3人に任され、左膳は「君側専務之任」となった。

土佐藩士が参戦

鳥羽・伏見の戦いにおいて、当初土佐藩は容堂の方針から不参加であったが、乾退助の意を組む討幕派・山田平左衛門らは薩土討幕の密約に基づいて参戦。これらが評価されて朝廷より官軍として錦の御旗を御下賜あらせられた。

失脚し謫居

土佐藩が藩論を討幕派に転じたことで左膳は失脚。さらに明治元年(1868年)6月27日には士族の身分を剥奪されて、安芸郡野根村(現東洋町。土佐藩領の東端)へ追放処分となる[3]。明治3年(1870年)2月に処罰が解除され、高知帰参を許された。

華族会館の理事委員

廃藩置県で高知藩が廃された後は、旧藩主・山内豊範の家令となった。のち山内家を致仕して華族会館の理事を勤め、また民間の事業に関わった。明治19年(1886年)には日本初の私鉄である日本鉄道会社の理事委員となっている。幕末の土佐藩で中心的な役割を果たした人物の割には世に知られることもなく、晩年は不遇であった[4]。 明治29年(1896年)7月、死を前にして従五位に叙せられた。享年63。墓は祐天寺東京都目黒区)。

栄典


  1. ^ 青山2006、96頁。
  2. ^ 『寺村左膳道成日記』
  3. ^ 青山2006、115頁。
  4. ^ 『明治維新人名辞典』
  5. ^ 『官報』第3914号「叙任及辞令」1896年7月16日。


「寺村道成」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「寺村道成」の関連用語

寺村道成のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



寺村道成のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの寺村道成 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS